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写楽の正体は能楽師!?――「写楽=斎藤十郎兵衛」説を紐解く

作成者: 能楽太郎|2026年4月2日(木)

2025年放送の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」でも大きな注目を浴びた、江戸後期の浮世絵師・写楽。
わずか約10か月という短い活動期間に数多くの歌舞伎役者絵を発表しながら、忽然と歴史の表舞台から姿を消した“謎の絵師”として知られています。

ドラマでは、蔦屋重三郎や喜多川歌麿らが手がけたとする「写楽複数人説」が描かれましたが、近年とくに注目されているのが、「写楽=能楽師・斎藤十郎兵衛」説です。
斎藤十郎兵衛は「べらぼう」でも物語の鍵を握る存在として描かれ、その実像への関心が高まっています。

本コラムでは、この“写楽=十郎兵衛”説を多角的にひも解きながら、謎多き写楽の人物像に迫ります。

写楽の正体がいまも謎なのは――活動期間の短さと忽然たる蒸発

東洲斎写楽筆「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」寛政6年(1794)
出典:ColBase 東洲斎写楽筆「市川鰕蔵の竹村定之進」寛政6年(1794)
出典:ColBase

 

写楽(東洲斎写楽)は、寛政6年(1794)5月から翌年正月頃までの約10カ月間に、歌舞伎役者の表情や個性を強くとらえた「大首絵」を中心に、145点もの役者絵を残しました。大胆な誇張表現は当時として斬新で、現在では葛飾北斎らと並び「四大浮世絵師」の一人として高く評価されています。

しかし、その短すぎる活動期間に加え、作品以外に本名や生没年を示す史料が乏しいことから、正体は長らく謎とされ、「北斎説」「歌麿説」「蔦屋重三郎説」など多様な仮説が提起されてきました。

そのなかで、今日もっとも信憑性が高いとされるのが、阿波徳島藩のお抱え能楽師・斎藤十郎兵衛とする説です。

能楽師・斎藤十郎兵衛が写楽と言われる理由――古文書に残る手がかりと複数の状況証拠

斎藤十郎兵衛が住んでいたとされる八丁堀地蔵橋(現・日本橋茅場町3丁目付近)

 

天保15年(1844)、江戸時代の考証家・斎藤月岑(さいとうげっしん)が著した『増補浮世絵類考』に、「東洲斎写楽 天明寛政中の人 俗称 斎藤十郎兵衛 江戸八丁堀に住す 阿洲侯の能役者也」との記述があります。

すなわち写楽の俗名は斎藤十郎兵衛で、八丁堀に住む阿波徳島藩お抱え能役者であったというのです。この説が有力視される理由には、以下のような状況証拠があります。

 

  • 当時の八丁堀(現・日本橋茅場町)には阿波徳島藩・蜂須賀家の中屋敷があり、藩お抱えの能楽師が居住していた。
  • 近隣には写楽の画題となった芝居小屋や、蔦屋重三郎の版元「耕書堂」も存在していた。
  • 写楽の号「東洲斎」は“江戸の東に広がる洲(三角州)”を意味し、該当地域は八丁堀から築地周辺に限られる。
  • 当時の能番組に「斎藤十郎兵衛」の名が確認できる。

 

また、能楽師として役者の身体表現を熟知していたことが、写楽の役者絵にみられる鋭い写実性・劇的誇張に深く影響したと推測されています。

過去帳の発見で浮かび上がった能楽師・斎藤十郎兵衛の実像

斎藤十郎兵衛の過去帳が見つかった法光寺(埼玉県越谷市)

 

平成9年(1997)、浄土真宗の寺院・法光寺にて斎藤十郎兵衛の過去帳が発見されました。過去帳には次のように記されています。

文政三庚申年 辰三月七日 釋大乗院覚雲居士 八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十郎兵衛事 行年五十八歳千住ニテ火葬

すなわち、

「八丁堀地蔵橋に住む阿波徳島藩士・斎藤十郎兵衛は、文政3年(1820)3月7日に58歳で死去し、千住で火葬された」

という内容です。

法光寺は現在こそ埼玉県越谷市にありますが、本来は築地に所在した寺院で、斎藤家の菩提寺でした。この発見により、斎藤十郎兵衛の実像が一段と明確になりました。

各種史料から見えてきた、十郎兵衛のプロフィールは以下の通りです。

 

  • 宝暦13年(1763)生まれ。阿波徳島藩・蜂須賀家に仕えた江戸在住の能楽師の家系。

  • 父は斎藤与右衛門、祖父は斎藤十郎兵衛。代々「与右衛門」と「十郎兵衛」を交互に名乗る家筋。

  • 幼名は斎藤源太郎と推測される(注1)。喜多座に所属する地謡方で、下掛宝生流のワキを務めた。

  • 住まいは「八丁堀地蔵橋」(現・日本橋茅場町3丁目)。藩中屋敷に能楽師として居住。

  • 藩主・蜂須賀治昭が参勤交代で不在の時期、能楽師としての“非番期間”が生じていた。

  • この非番期間が、写楽の活動期間(約10か月)と完全に一致することから、浮世絵制作に専念できた可能性が高い。

  • 文政3年(1820)、58歳で没。

 

十郎兵衛の人物像には、もう一つ重要な側面があります。

十郎兵衛は、能楽師として武士に準じる高い身分と格式を備えていました。

一方、当時の浮世絵師(町絵師)は低い身分と見なされており、武家に仕える能楽師が表立って兼業することは許されませんでしたそのため、社会的立場を守るべく、浮世絵制作においては匿名を選び、「写楽」として姿を現しては消えた――。

その謎めいた行動の背景には、当時の身分制度が深く関わっていたと考えられています。

(注1)出典:法政大学学術機関レポジトリ「写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録」23頁 および 34頁

写楽記念碑が建つ法光寺――実在を裏付ける史跡として

法光寺に建つ写楽記念碑

 

法光寺の境内には、十郎兵衛の過去帳を発見したNPO法人「写楽の会」などによる寄贈で植樹された蜂須賀桜とともに、写楽記念碑が建立されています。

記念碑には、十郎兵衛の戒名と過去帳の写し、さらに代表作「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」「市川鰕蔵の竹村定之進」を刻んだプレートが添えられています。

案内板によると、過去帳を手がかりに斎藤家の系譜を調査したところ、寛文8年(1668)から明治初期に至る約200年の間に、約30名に及ぶ祖先の記録が確認され、斎藤家と法光寺の深い結びつきが推察されるといいます。

過去帳の発見により、能楽師・斎藤十郎兵衛が確かに存在したことが裏付けられ、「写楽=斎藤十郎兵衛」説の信憑性はさらに高まったといえるでしょう。

 

参考文献:表章「写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録」『能楽研究』第39巻、法政大学能楽研究所