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能「淡路」の詞章から読み解く淡路島

作成者: 能楽太郎|2024年4月18日(木)

能「淡路」は、日本の始まりである「国生み神話」を物語る曲です。「淡路」の詞章(で謡われる言葉、セリフのこと)には淡路島に現在でも残されている神社や名所旧跡が登場します。本記事ではそれらを紹介し、「淡路」の詞章から淡路島の魅力を探ります。

それでは「神代の古跡をも一見せばやと存じ候」(能「淡路」詞章より)

 

大和大国魂神社 能「淡路」の舞台 淡路の国 二ノ宮

境内入口に新しい鳥居が立ち、広く長い境内の奥に社殿がある大和大国魂神社 写真提供/淡路島日本遺産委員会

能「淡路」あらすじ

ワキ(主役の相手役)である帝の臣下が、住吉社(大阪)と玉津島神社(和歌山)の参詣を終え、神代の旧跡であると伝わる淡路の国に立ち寄るところから始まります。時は折りしも春の田作りの季節、農夫の翁(前シテ=前半の主役)と男(ツレ=シテの助演者)がやってきて、田の水口(みなくち=取水口)に幣帛(へいはく=神への供え物)を立て作業にいそしんでいました。 田に幣帛が立てられていることから、帝の臣下は「この田は御神田(ごしんでん=神様へお供えする米を作るための田)ではないか」と翁に問いかけると、翁は古歌を引用しながら、確かにここが淡路の国、二ノ宮の神田であると答えます。

淡路島は瀬戸内海で最大の面積を誇る広い島です。この帝の臣下と翁の問答シーンではじめて島内の場所設定が示されました。

淡路の国、二ノ宮は、現在の兵庫県南あわじ市に鎮座する「大和大国魂(やまとおおくにたま)神社」のことです。平安時代に書かれた神社一覧「延喜式神名帖(えんぎしきじんみょうちょう)」にも記載された歴史ある神社です。境内から出土した「大和社印」は兵庫県の重要文化財に指定されています。

さて、ここが二ノ宮であると知った臣下は、「それならば一ノ宮はどこですか。ひょっとして楪葉権現(ゆずりはごんげん)でしょうか?」と翁に尋ねます。せっかくだから一ノ宮にお参りしたいと思ったのかもしれません。

これに対して翁は「ここが二ノ宮というのは神社の格式や規模の序列ではありません。イザナギ、イザナミの二神を一緒に祀っているから、ここは二ノ宮なのだ」と臣下をたしなめます。このようにワキの勘違いや誤解をシテがたしなめるという場面は脇能(神をシテとする演目)の定番、お決まりのワンシーンとなっています。

 

能「淡路」詞章より

前シテ(翁)・ツレ(男)「神は一きう(級/宮)宮居は二つの、二の宮と崇め申すなり

  • この謡の「きう(きゅう)」の文字は、当てる漢字が謡本にハッキリ伝わっていません。
    「體(体)」の誤写であるとも、翕(きゅう=集まる、納める、起こるの意)の字とも言われます。

諭鶴羽神社 「枕草子」にも謳われた修験道の霊地

名前が似ている縁から羽生結弦選手が訪れたことでも知られる諭鶴羽神社

ワキの臣下が「淡路の一ノ宮」と尋ねた楪葉権現とは、南あわじ市にある「諭鶴羽(ゆずるは)神社」のことと推測されます。イザナギ、イザナミの二神を祀る神社で、淡路島の最高峰・諭鶴羽山の山頂に鎮座します。創建は2000年以上の昔と伝えられ、諭鶴羽山への山岳信仰、国生み神話への信仰、そして修験道の聖地として崇敬の念を集めてきました。

とくに平安時代以降の修験道の隆盛はたいへん著しいものでした。清少納言が残した「枕草子」にも「峰(山岳修行の霊場)は、ゆづるはの峰、阿弥陀の峰、弥高(いやたか)の峰」と記されるほどで、かつては山一帯に28もの堂宇(どうう)が立ち並ぶ一大霊場でした。戦国時代にたび重なる兵火を受け、いくたびかの再興を経て、諭鶴羽神社は現在の規模となりました。

明治の神仏分離、廃仏毀釈、修験道廃止令以降、諭鶴羽山の修験道も消滅していました。しかし、復興を願う行者の方々が集まって平成20年に復活されました。現在では神社の祭礼と並んで、修験道の祈祷、法要も行われています。「諭鶴羽山修験道場」という山伏修行の体験道場も開かれています。

能「船辨慶(船弁慶)」弁慶の台詞より

義経記に出てくる「義経都落ちの事」や平家物語を典拠とし、おなじみの判官源義経や武蔵坊弁慶、静御前などが登場する有名な能「船辨慶」ですが、弁慶が「あら笑止や風が変わって候、あの武庫山おろし、ゆずりはが嶽より吹き降ろす嵐に、この船の陸路に着くべきようぞなき」という場面説明をします。この時の「ゆずりはが嶽」はこの諭鶴羽山のことと推測されます。義経の一行が大物の浦(尼崎市)から船出して、紀伊半島と淡路島の間を抜けて進んでいたことがよくわかります。

詞章の「オノゴロ島」は沼島・絵島・他の島?

 

能「淡路」詞章より

地謡「さればにや二柱の御神のオノゴロ島と申すも、この一島のことかとよ

 

日本神話を構成する神話のひとつ「国生み神話」においてイザナギとイザナミが天の浮橋(あめのうきはし)に立って、何もない海原を天の沼矛(あめのぬぼこ)という矛でかき回したところ、矛から滴り落ちたものが積もり重なって生まれたとされる島。これが「オノゴロ島」です。

この島で二神は結婚し、そうしてできた最初の島が淡路島とされます。

「古事記」と「日本書紀」に記された「記紀神話」では二神によって生み出された島を彼らの子として記しますが、正式な婚姻と手順を踏まずに生まれた「オノゴロ島」「アワシマ」「ヒルコ」の三神は子の数に数えないことになっています。

「オノゴロ」という不思議な、日本語でないような響きの名前ですが、「古事記」では「淤能碁呂」、日本書紀では「磤馭虞」という漢字が当てられます。また「自ずから凝り固まった島」という意味で「自凝島」とも書かれます。オノゴロともオノコロとも両用に読みます。

オノゴロ島は、神話上の架空の島であるという説と、実在する島であるという説が古くから存在し、淡路島と周辺近海には三か所、伝承が残されています(下写真の三箇所参照)。

この他にも、和歌山説や福岡の博多説、島根説など西日本を中心にオノゴロ島伝説が残されています。

天の浮橋 おのころ島神社周辺に作られた神話ゆかりの地

 

能「淡路」詞章より

後シテ(イザナギ)「天の浮橋の上にして。八洲の国を求め得るし

地謡「さすは御鉾の手風なり。引くは潮の時つ風。治まるは波の蘆原の。国富み民も豊かに。万歳をうたふ松の声。千秋の秋津島。治まる国ぞ久しき

 

能「淡路」の後半ではイザナギが神々しい姿を現して、国生みの様子を謡い颯爽と舞います。イザナギ、イザナミの二神が国生みのために最初に降り立ったとされるのが「天の浮橋」です。

先ほどご紹介した南あわじ市のおのころ島神社の周辺には、この「天の浮橋」といわれる場所が残されています。おのころ島神社から西へ約400mほど移動した住宅地の中にひっそりと佇んでいるのですが、実はこの場所は江戸時代につくられたものです。天の浮橋の近くの田んぼの中には、イザナギ、イザナミが作った日本国の別称である「葦原国(あしはらのくに)」の碑もあります。

江戸時代に作られたものですので、あくまでも神話に思いを馳せるための記念碑的なものですが、当時の名所図会等に記載されていて、人気を集めていたようです。

能に登場する寺社仏閣、名所旧跡の旅

本記事では能「淡路」に登場する神社、名所旧跡をご紹介しました。

能「淡路」に限ったことではありませんが、能に登場する寺社仏閣、名所旧跡が現代でも残されていることは感慨深いものがあります。旅行に出かける際は、行き先ゆかりの能の跡を旅をしてみるのも面白いのではないでしょうか。