能楽は、その精神性から武士に広く愛好されてきた歴史があります。

しかし、佐渡の能楽は、市井の人々が舞い、謡い、観る“民衆能“であることが大きな特徴です。なぜ、“庶民の能“として発展したのか、その理由を探ります。

能楽が暮らしの中に溶け込む佐渡の地

かつて佐渡の農家の人たちが畑仕事で謡を口ずさむ日常を「鶯や十戸の村の能舞台」(小さな村にも能舞台がある)と歌人である大町桂月が詠んだ句のとおり、佐渡は能楽が暮らしの中に溶け込んでいる全国でも大変珍しい土地です。
ひと昔前までは、祝言の席や新築祝いなど、人が集まる宴席では決まって謡が聞こえたといいます。

また、佐渡には「舞い倒れ」という言葉があります。京都の着倒れ、大阪の食い倒れと同様、能にハマって身上をつぶすことを意味し、能を習い始めると、周囲に『舞い倒れんやな』(佐渡弁)と言われることも多かったそうで、いかに能楽が身近な存在であったかがうかがわれます。

これには、佐渡に能文化が根付いていった歴史が関係しています。

神社に奉納する神事能として独自の進化を遂げる

佐渡は能の大成者・世阿弥が流された地として知られていますが、実際にここまでの広がりを見せたのは江戸時代初期から。

金銀の資源に恵まれた佐渡は幕府の天領(直轄地)となり、1604年(慶長9年)、初代佐渡奉行として派遣された大久保長安(おおくぼ ながやす/ちょうあん)が能楽師の常太夫(つねだゆう)と杢太夫(もくだゆう)ほか、囃子方・狂言方一行を連れてきたことが大きく影響しています。
ちなみに、長安は猿楽師(現能楽師)の家に生まれ、武士となった経歴をもちます。

佐渡奉行所跡
【相川地区】佐渡特有の奉行所の形態を忠実に復元した佐渡奉行所跡

初めは奉行所の役人たちの教養として取り入れられた能楽でしたが、次第に神社に奉納する神事能として、金山のある相川地区から、平野の国中地区へ、そして島内各地へと広がっていきました。

その名残として、現存する30余りの能舞台の多くは神社の境内に建てられています。たとえば、由緒を誇る「国仲四所の御能場」といわれた大膳神社・牛尾神社・加茂神社・若一王子神社もすべて神社です。

牛尾神社の能舞台
国中地区】「国仲四所の御能場」の一つ、牛尾神社の能舞台も神社の境内に建てられている

 

佐渡能楽に寄せる気概が感じられる本間家能舞台の鏡板

地元の名門だった本間家初代・秀信が慶安年間(1648〜52)に奉行所より能大夫(のうだゆう)を仰せつかり、佐渡に宝生座を開き、島内各地に門下生を得るようになると、次第に庶民たちの間にも能楽が浸透していきました。

この宝生座が村々の神社に能を奉納し、江戸中期以降、佐渡能楽の中心的存在として影響を及ぼし、伝統を守り続けてきました。

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【両津地区】加茂湖畔の吾潟地区にある本間家能舞台

本間家能舞台は、1885年(明治18年)に再建された瓦葺き寄棟造りで、新潟県の有形民俗文化財に指定されています。

床下には音響効果としてふたつの甕が向かい合って斜めに埋設されているなど、本格的な造りをしています。
注目したいのは、老松(影向の松)の背景に、海上から見える佐渡の山々が描かれているとされる鏡板。

通常、鏡板に描かれるのは老松一本ですが、よく見ると、手前に小佐渡山脈、奥に大佐渡山脈が描かれているように見えます。佐渡の山々が描かれた鏡板からは、本間家の佐渡能楽に寄せる気概が感じられます。 

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【両津地区】佐渡の山々が老松の背景に描かれた本間家能舞台の鏡板

 

こうして、今なお受け継がれている佐渡の能楽は、毎年4月の演能を皮切りに、10月まで島内各地の能舞台でその幽玄の世界を楽しむことができます。

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