老杉の木立に溶け込む茅葺き屋根の能舞台

中尊寺 白山神社

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旧伊達藩主によって再建・寄進された能舞台

白山神社は中尊寺鎮守の一つで、境内の北方にあります。

現存する能舞台(写真)は、1853年(嘉永6年)に旧伊達藩主・伊達慶邦によって再建・寄進されたものです。経済危機下での奉納であったため、当初、鏡板の松は描かれませんでしたが、その後1947年(昭和22年)、能画家の松野奏風により、山内円乗院の老松を写して描かれました。

橋掛り、楽屋などを完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本で唯一とされ、2003年(平成15年)に国の重要文化財に指定されました。2016年に葺き替えられた茅葺き屋根、歳月に洗い流されたような素木の美しい能舞台が老杉の木立に溶け込む様は風情があります。また、演能の際には舞台の奥まで西日が射し込むため、面や装束が美しく映えて独特の雰囲気を醸します。

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中尊寺の僧と地元住民による「中尊寺能」を奉納

白山神社には、この能舞台を使った能舞を1591年(天正19年)に豊臣秀次と伊達政宗が観覧したという社伝が残っていますが、平泉に能楽が伝えられたのは伊達藩の時代と考えられています。伊達藩は、金春流をお抱えにしていましたが、やがて喜多流に転向しました。また、市井では、中尊寺の僧を中心に地元の人々が稽古を受け、謡や舞を伝承してきました。

現在、春と秋の藤原まつりに白山神社に奉納される「中尊寺能」は、シテ・ワキ・囃子・狂言方を中尊寺の僧が、地謡を地元住民が勤めるという、全国でも珍しい演能方式によって行われています。

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毎年8月に幽玄の世界へ誘う「中尊寺薪能」を上演

春の藤原まつりに行われる中尊寺能は「御神事能」と呼ばれ、中尊寺の僧による古式ゆかしい「古実式三番(こじつしきさんば)」に続いて能が奉納されます。

国の指定文化財でもある古実式三番は、最初に「開口」として翁(白式尉)が登場し、中尊寺周囲の山河秀峰を称え、寺のいわれなどを説きます。次の「祝詞(のっと)」で顔を隠した僧が祝詞を唱え、「若女(じゃくじょ)」で若女面をつけた僧が鈴と扇を手に舞います。そして最後の「老女」で老女面をつけた僧がやはり鈴と扇を持って舞うという流れで行われ、囃子は笛、小鼓、太鼓が入ります。なお、この御神事能は1876年(明治9年)に当時の天皇が天覧されています。

中尊寺能のほか、毎年8月14日には「中尊寺薪能」が上演され、篝火が燃える中、喜多流の能と和泉流の狂言が披露され、幽玄の世界が展開されます。

施設情報

住所

〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関173

連絡先

0191-46-4397

交通案内

JR一ノ関駅から車で約25分

最寄りのバス停

中尊寺(水沢前沢線)から徒歩15分

ウェブサイト

https://iwatetabi.jp/spot/detail.spn.php?spot_id=723
(岩手県観光協会)

能楽番組を見る

吉野静

能「吉野静」

物語の舞台

春爛漫の吉野山 勝手神社(現在の奈良県吉野郡吉野町)

ストーリー

静御前が義経を逃そうと時間を稼ぐために、白拍子姿で美しい舞を見せます軍記物語「義経記(ぎけいき)」を題材とした、観阿弥作の曲。

平泉旅 特別映像

老杉の木立に溶け込む茅葺き屋根の能舞台の中尊寺 白山神社を中心に、岩手県平泉と能楽の関係を巡る特別映像です。

フォトギャラリー

平泉の風景や、能楽に所縁のある名跡のフォト、取材にともなうオフショットを集めました。各フォトをクリックすると説明をご覧いただけます。

平泉の四季折々の魅力

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美しい桜の似合う古都・平泉

古都・平泉は、4月中旬~下旬に美しい桜が見頃を迎えます。

「県道300号の桜並木」(写真)は、JR平泉駅周辺~中尊寺へ向かう県道300号(旧国道4号)沿いの約1.5kmにわたり、ソメイヨシノなどの桜並木が続きます。満開時にはその名のごとく“桜のトンネル”となり、幻想的な情景となります。

「西行桜の森」は、「ききもせず束稲(たばしね)やまのさくら花 よし野のほかにかかるべしとは」と、かつて西行法師が桜の美しさを詠んだ長島地区にある森。往時の桜山を復活させることを目的として様々な種類の桜が数千本植えられています。展望台からは、中尊寺、毛越寺など平泉の町並みを一望でき、遠方には満開の桜とともに雪山を見ることができます。

春の平泉についてさらに知るなら
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水辺に咲く花菖蒲やハスを楽しむ

夏の平泉は、涼しさを演出してくれる水辺に咲く夏の花が出迎えてくれます。

「毛越寺(もうつうじ)あやめ園」(写真)は、浄土庭園に浮かぶ大泉が池の西側にあり、6月下旬~7月上旬には300種3万株の花菖蒲が見頃を迎え、紫、白、黄色の色鮮やかな花が緑濃い浄土庭園と絶妙なコントラストを生みだします。この時期、毛越寺ではあやめ祭りが開催され、延年の舞や、琴と尺八の演奏会、茶会など日本の伝統を伝える催しが数多く行われます。

「中尊寺ハス」は、7月中旬~8月中旬にかけて、金色堂東側にある金剛院ハス池で鮮やかなピンク色の花を咲かせます。中尊寺ハスは、昭和25年の金色堂発掘調査の際、奥州藤原氏の四代泰衡(やすひら)の首桶から見つかった約800年前の種子を発芽・開花させたもので、古代の姿を鮮やかに今に伝えます。

夏の平泉についてさらに知るなら
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浄土庭園の水面に映る紅葉が映える

10月下旬~11月中旬、色づいた木々が鮮やかさを増す平泉は東北指折りの紅葉の名所。神社や寺などの名跡とともに紅葉を楽しむことができます。

「観自在王院跡」(写真)は、毛越寺に隣接する庭園で、奥州藤原氏二代基衡の妻が建立したと伝えられる寺院跡です。舞鶴が池を中心とした浄土庭園の遺構はほぼ完全な形で保存され、今は史跡公園として整備されています。池面に映る周囲の風景や紅葉が平安の世界へと誘います。

このほか、「毛越寺」の浄土庭園の中心にある大泉が池に映る紅葉や、「中尊寺」境内に色づくイロハモミジやヤマモミジの紅葉と鬱蒼とした老杉とのコントラストも美しく必見です。

秋の平泉についてさらに知るなら
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雪をまとった古刹が趣を増す

雪をまとい静寂に包まれた平泉は、まるで水墨画のような趣があります。

「達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂」(写真)は、坂上田村麻呂が蝦夷平定の記念に毘沙門天を祀った岩窟。1200年以上の歴史を誇る古刹であり、「達谷窟」として国史跡に指定されています。冬に雪が積もると、朱色の鳥居や毘沙門堂と、積もった白い雪のコントラストが美しく目に飛び込んできます。

また、平泉では、京都・東山になぞらえた束稲山に約100メートルの「大」の字が夜空に浮かぶ「平泉大文字送り火」が行われていますが、冬には「大」の文字が雪化粧して白く浮かび上がる「雪の大文字」も趣のある風景として知られています。

冬の平泉についてさらに知るなら

平泉で能楽に触れる

能の人気演目に登場する源義経の足跡を追う平泉の旅

悲劇の英雄、源義経が登場する能の演目は数々あります。実の兄・頼朝に追われる身となった義経が、弁慶の機転と関守の富樫の温情で安宅の関を無事に通過する様子を描いた「安宅」をはじめ、「船弁慶」「八島」「橋弁慶」「烏帽子折」「鞍馬天狗」「正尊」……、上演頻度が高く人気の演目が多くあります。

平泉は、その義経が少年時代を過ごすとともに、悲運の生涯に幕を下ろした最期の地であるため、義経に縁のあるスポットが点在しています。平泉に残る義経の足跡を追う旅へ出かけてみましょう。

義経、終焉の地「高館義経堂」

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義経最期の地に建つ高館義経堂

兄の頼朝に追われる身となった義経が最後に頼ったのが、奥州藤原氏の三代秀衡(ひでひら)でしたが、秀衡は義経が平泉入りした年に没し、頼朝の圧力に屈した跡継ぎの四代泰衡(やすひら)によって義経は自害へと追い込まれます。

高館義経堂(たかだちぎけいどう)」は、頼朝から逃れてきた義経が秀衡より与えられた居館があった場所で、同時に最期を遂げた地とも伝えられています。

中尊寺の東方にある丘陵に位置し、義経が判官の位にあったことに由来して地元では判官館(はんがんだて、ほうがんだて)とも呼ばれています。

丘の上には、1683年(天和3年)に仙台藩主の伊達綱村が義経を偲んで建てた義経堂があり、中には義経の木像が安置されています。

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義経堂には創建時に製作された甲冑姿の義経像が本尊として祀られている

高館義経堂からの眺望は平泉随一といわれ、1689年(元禄2年)に当地を訪れた松尾芭蕉が詠んだ句「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」は、ここで詠まれたものです。「弁慶の立ち往生」の逸話がのこる衣川が望まれ、眼下には北上川が静かに流れています。

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高館義経堂からの眺め。眼下には北上川が流れ、川向こうには束稲山を望むことができる

義経の正妻と娘が眠る「源義経公妻子の墓」

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千住院にある源義経公妻子の墓

義経は四代泰衡に攻められた折、妻と幼い娘の命を奪った後に自害したとされています。

金鶏山の入り口近くにある千住院には「源義経公妻子の墓」があり、小さな二つの石塔は義経の妻子とされる母子の墓と伝えられています。

母子の墓は、静御前ではなく、義経の正妻である郷御前と娘のものと言われており、もとは金鶏山の山麓にあったものを現在の場所に移して供養しています。

弁慶松とともに建つ「武蔵坊弁慶大墓碑」

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大墓碑の右後方にある小さな五輪塔が弁慶の葬られた墓

義経の忠臣として有名な武蔵坊弁慶は、泰衡が義経を討とうとした「衣川の合戦」で主君を守るために獅子奮迅の働きを見せますが、最期は薙刀を持って矢面に立ち、仁王立ちしたまま絶命したと言われており、「弁慶の立ち往生」として後世に語り継がれています。

中尊寺入り口手前にある「武蔵坊弁慶大墓碑」は、弁慶の墓と伝えられています。大墓碑の後方にある小さな五輪塔が弁慶の遺骸を葬った墓とされ、その隣に中尊寺の僧・素鳥が詠んだ「色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊」の句碑があります。最期まで変わることのなかった弁慶の義経に対する忠義の心を、色を変えない松に例えた句ですが、そのそばには句の通り、弁慶松と言われる大きな松が立っています。

弁慶の立ち往生の等身木像を祀る「弁慶堂」

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中尊寺境内にある弁慶堂

中尊寺の入り口である月見坂を上っていくと本堂手前左側に、弁慶の名前を冠した「弁慶堂」があります。

1827年(文政10年)に建立され、古くは愛宕堂と称されていましたが、弁慶像が祀られていることから、弁慶堂と呼ばれるようになりました。

堂の中には弁慶の立ち往生の様子を描いた等身木像、その隣には義経の座像もあるほか、弁慶の自作と伝えられる小さな木像、義経主従のものと伝えられる笈(おい、仏具などを納めて背に負う箱)も見ることができます。

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弁慶の立ち往生をモチーフにした等身木像、隣には甲冑姿の義経座像が祀られている

「平泉レストハウス」周辺に集中する義経にまつわる史跡

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源義経衣川古戦場碑

上記のほかにも、平泉には義経にちなんだ碑などがたくさんありますが、とくに集中しているのが観光施設「平泉レストハウス」の周辺です。

平泉レストハウスの施設の一つである「平泉文化史館」(現在閉館中)の敷地内に建っているのが「源義経衣川古戦場碑」。泰衡が義経を討とうと仕掛けた衣川の合戦の場所を伝える碑です。

そのすぐ近くには、義経の家臣で衣川の戦いで自害したとされる亀井六郎重清にちなんだ「伝亀井六郎重清松跡」もあります。

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伝亀井六郎重清松跡

平泉レストハウス裏の駐車場にあるのが「武蔵坊弁慶立往生旧跡碑」。1986年(昭和61年)、秀衡・義経・弁慶800年の御遠忌を期して造立された石碑で、その右後ろには「弁慶力石」と「弁慶桜」があります。

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武蔵坊弁慶立往生旧跡碑

写真協力:ひらいずみナビ岩手県観光ポータルサイト・いわての旅

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