能の大成者である世阿弥は、父・観阿弥とともに幼少の頃から奈良で活動していましたが、やがて京都に進出。将軍足利義満の庇護を受けながら、今に伝わる能楽の基礎を確立しました。世阿弥の痕跡が色濃く残る奈良・京都の寺社をご紹介しましょう。
世阿弥の運命を決めた世紀の大舞台「新熊野神社」(京都市)
1375年(永和元年)、当時12歳だった世阿弥は、父・観阿弥とともに将軍足利義満の御前で猿楽を披露しました。このときの舞が義満の目にとまり、以降、世阿弥は義満から寵愛を受けることになります。この能楽史に残る世紀の大舞台となったのが、京都市東山区にある新熊野神社(いまくまのじんじゃ)です。
新熊野神社は「能楽発祥の地」と呼ばれ、境内には、世阿弥自筆の著書『花鏡』から写した「能」の一字が刻まれた記念碑や「世阿弥 義満 機縁の地」の碑があります。
新熊野神社の創建は平安時代末期の1160年(永暦元年)、後白河上皇が平清盛に命じ、熊野の神をここに迎えるため、熊野から土砂材木などを運んで社殿を造営しました。境内には、後白河上皇が手植えされたという樹齢900年を超える大樟(おおくすのき)があり、健康長寿の守り神として信仰されています。
世阿弥が禅宗の教えを学んだ「補巌寺」(奈良県磯城郡田原本町)
補巌寺(ふがんじ)は、世阿弥が当寺の第二代・竹窓智厳(ちくそうちごん)に師事して禅宗の教えを学んだ寺とされています。このことが分かったのは昭和30年代になってから。「補巌寺納帳」という土地台帳が見つかったことにより、世阿弥が娘婿の五十七世・金春禅竹に宛てた手紙に書かれていた「ふかん寺」が補巌寺であったことが証明され、世阿弥がここで参学していたことが解明されました。さらには、世阿弥が田地を当寺に寄進していたことや、命日が8月8日と記載されていること、世阿弥の妻の名前も確認されました。
この発見を記念して、補巌寺開基600年にあたる1984年(昭和59年)、「世阿弥参学之地」の碑が門前に建てられました。
補巌寺は、1384年(至徳元年)に大和で初めての禅宗寺院として建立され、江戸時代には領主・藤堂氏の祈願所となりましたが、安政5年(1858年)に焼失し、現在は山門・庫裏(寺院内の僧房)・鐘楼のみが盛時の面影を今に伝えています。
なお、世阿弥が佐渡に流された後の詳細は分かっていませんが、補巌寺納帳に命日が記録されていることから、佐渡から奈良に戻り、若い頃に禅宗を学んだ補巌寺に妻とともに身を寄せ、この地で亡くなったのではないかという説もあります。
世阿弥が使用した「阿古父尉」の能面が今も残る「天河大辨財天社」(奈良県吉野郡天川村)
世阿弥が使ったとされる「阿古父尉(あこぶじょう)」の能面を現在でも所蔵しているのが、別名天河神社といわれる天河大辨財天社(てんかわだいべんざいてんしゃ)です。
1422年(応永29年)頃、世阿弥は、観世大夫の座を長男の元雅に譲りますが、時の将軍・足利義教の寵愛は世阿弥の甥(元雅の従兄)の音世弥に移っており、世阿弥は佐渡へ流され、元雅も活動の場を閉ざされてしまいます。元雅は再起を決心して、天河神社に能「唐船(とうせん)」を奉納し、阿古父尉の能面を寄進したのでした。
このほかにも、天河神社には、豊臣秀吉が奉納した唐織の装束など古い能面や能装束が多く現存します(※阿古父尉の能面を含めてすべて非公開)。また、7月の例大祭や春秋の大祭では、観世流をはじめ、シテ方五流の能楽師による能楽奉納が行われています。
それというのも、創建を飛鳥時代に遡る天河神社の主祭神は市杵島姫命(弁財天)で、水の神であり、芸能の神でもあるからで、現在も芸能関係者が多く参詣に訪れるパワースポットとして知られています。
この機会に能楽界のスーパースター・世阿弥の魅力に触れてください
上記の寺社を訪ねる京都から奈良への旅は、現代でこそ1日で巡ることができますが、世阿弥の時代の交通状況を考えると気が遠くなるほどに厳しい道のりだったことがうかがえます。世阿弥の健脚ぶりに驚くとともに、世阿弥の能楽への情熱をひしひしと感じた旅でした。今回の旅は、世阿弥の波乱の生涯を知ってこそ、いっそう楽しめます。最近では漫画やアニメでも世阿弥を知ることができます。また、世阿弥が佐渡に流されてからの足跡は「能楽を旅する〜佐渡旅」でご覧いただけます。この機会にぜひ、能楽界のスーパスター・世阿弥の魅力に触れてください。