能楽を大成した観阿弥、世阿弥の子孫である観世家は、浜松城で七世観世大夫が徳川家康に仕え、のちに能楽を江戸幕府の式楽(公式行事等に演能される幕府公認の芸能)へと導きました。

二十五世観世宗家の次男として生まれ、現在は浜松城公園内茶室で定期開催されている能楽教室の講師も勤めるシテ方観世流の山階彌右衛門さんに、浜松城と観世家の関わりから武士にとっての能楽、さらに今回、浜松城 特別映像として制作している能「忠度」の魅力についてお伺いしました。

 

山階彌右衛門(やましな・やえもん)

1961年、二十五世観世宗家 観世左近の次男として生まれる。

2007年、十二世山階彌右衛門を襲名。

国内各地での能楽公演をはじめ、学校・企業などで能の面白さを分かりやすく学べる「能のワークショップ」を継続的に行うなど普及活動と後進の育成に力を注いでいる。海外公演にも数多く参加。

一般社団法人観世会 副理事長。一般財団法人観世文庫 常務理事。国立能楽堂 能楽養成 副主任講師。

能の先生と生徒という関係を超えて親密な間柄にあった観世大夫と家康

浜松城と観世家との関わりから教えてください。

山階:浜松城を築城して約17年間を過ごした徳川家康は、人質として今川氏に預けられていた幼少の頃から観世十郎大夫から能楽の手ほどきを受け、浜松城時代には観世十郎大夫の弟である七世観世大夫元忠宗節が仕えていました。この宗節こそが、私ども観世家の血筋にあたる方で、家康との深い結びつきを表す逸話がたくさん残されています。

そのひとつをが元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでの出来事です。

武田信玄の軍に攻められ、浜松城に逃げ帰った家康は、兵も城に戻れるように城門を開けます。そして討ち死に覚悟で宗節に舞を所望します。しかし……開け放たれた城門を見た武田軍は敵の警戒心を誘う奇策と誤解して撤退してしまうのです。この勝利を記念し、城で新年最初に能の謡曲を謡う儀式「謡初(うたいぞめ、うたいはじめ)」で「弓矢立合(ゆみやたちあい)」という戦勝の曲が舞われるようになったと伝えられています。

なお、現在において弓矢立合は「能にして能にあらず」と言われる祝言曲「翁」の小書(特別演出)として三人の翁が舞う形で行われています。

また、三方ヶ原の戦いではこんなエピソードもあります。

浜松城に逃げ帰ったとき、家康はあまりの恐怖に粗相をしてしまいました。これを見た宗節が着物を取り替えて自分が粗相をしたように見せて家康の面目を保ったため、家康は大きな恩義を感じたというものです。これらの逸話からも、宗節と家康は単なる能の先生と生徒という関係を超え、もっと近しく親密な間柄であったことが推察されます。

その後、徳川幕府は能を幕府の式楽(公式の場での芸能)と定め、慶事や公式行事等の際には能が演じられるようになったのです。

 

浜松城外観
浜松城

能楽を通し、武士は礼儀作法や教養、そして“標準語”をも学んだ!?

当時の武士にとって能楽とはどんな存在だったと想像されますか?

山階:江戸幕府は能を式楽として位置付け、武士の嗜みとして能楽を学ぶように奨励しました。いままで戦場で戦をしてきた武士に、能楽を通して行儀作法や教養を学んでもらうという幕府の思惑があったのでしょう。

また、能の謡本には謡われる言葉(詞章=ししょう)の横に「ゴマ点」と呼ばれる節の高低などを示す小さな符号が記されています。これは言葉の発音(イントネーション)を示したものです。この時代は参勤交代により江戸に日本中から武士が集まっていましたから、謡を通して標準語を習ってもらうことで、幕府は全国の武士をまとめようとしたのではないかとも考えられます。

 

前出の謡初はのちに江戸幕府の年中行事となりましたが、観世家には謡初にまつわる面白い物が残っていました。

謡初では将軍・御三家・諸大名列座のもと観世大夫が謡い、それが終わると将軍自らが観世大夫に肩衣(かたぎぬ。袖なしの上衣のこと)を脱ぎ与え、続いて大名たちも肩衣を大夫に投げ与えました。実はこれらの肩衣は、後日金子(金銭)と引き換えに返却をするという慣習になっていたんです。

明治維新以降、観世家の長持 (ながもち。日本民具で、衣類や寝具収納に用いられる長方形の木箱)の中にはどなたのものかわからない肩衣がたくさん残されていたそうで(笑)、これこそが謡初の名残の肩衣だったのでしょうね。

千代田之御表 御謡初
「千代田之御表 御謡初」楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)画 明治30年(1897)刊 大判錦絵3枚続 所蔵館=東京都立中央図書館特別文庫室(加工)

浜松のお弟子さん発足の「浜松能の会」の主催公演が実現

山階さんご自身も浜松城と縁が深いとお伺いしています。

山階:現在、浜松城公園の一角にある茶室「松韻亭(しょういんてい)」で月1回開催されている能楽教室で謡と仕舞の稽古を担当しています。こちらは、茶室の作庭を担当した方がお弟子さんだったご縁からはじまり、今年で15年目を迎えます。

2021年にはこの能楽教室の生徒たちが中心となり、浜松市で能楽の魅力発信に取り組む市民団体「浜松能の会」が誕生しました。これは観世流の能楽師が中心となって浜松で2006年まで開催していた「浜松城薪能」のような定期公演を復活させたいと発足したもので、2022年5月には、同会初の公演が開かれました。私も舞囃子などで協力させていただき、ご来場のお客様に楽しんでいただくことができました。

浜松能の会の皆さんはたいへん熱心で、遠州人らしい情に深い方々ばかりなので、これからも手を携えて浜松での能楽普及に尽力していけたらと考えています。

 

松韻亭茶室能
浜松城公園の茶室「松韻亭」での能

初めて能楽に触れる人に理解してもらうには“ネタバレ”も必要

全国各地で継続している能のワークショップなどの普及活動についても教えて下さい。

山階:能楽は奥行きの深さが魅力ですが、その分理解が難しいという側面があります。そこで私のワークショップでは、初めて能楽に触れる人にも理解していただけるように、実際に演能をしながら途中途中で演能を止めて謡や舞の意味について解説をしています。

昔だったらネタバレなどと言われて大先輩方には叱られてしまう方法かもしれませんが、最近では映画を観るにも最初に結末を把握してから楽しみたいという若い方も多いようなので、この方法もあながち間違いではないと思っています(笑)。

これからは奥行きの深い能とともに、ある程度時間が短い分かりやすい能を創り出していくことも必要であり、その両輪で普及を進めていくことが大切と考えています。

浜松城公園の茶室「松韻亭」で定期的に稽古をされています
浜松城公園の茶室「松韻亭」で定期的に稽古をされています

和歌を愛する武士を描いた世阿弥作の美しい曲「忠度」

浜松城の特別映像にて採用している能「忠度」の魅力について教えてください。

山階:忠度(ただのり)」は、平清盛の弟で歌人としても武人としても優れていた平忠度を主人公として、世阿弥が作った曲です。私は今までにシテを3回勤めさせていただきましたが、好きな曲のひとつです。

前場は一ノ谷の戦いで忠度が討死した須磨の浦(現在の兵庫県)が舞台で、一本の桜の木が立っています。その桜のもとには忠度が眠っているという設定で、美しい情景が描かれます。

後場は忠度の亡霊が現れ和歌への執念を明かしますが、意外に舞どころの動きが激しく、自ら謡いながら飛んだり跳ねたりする演者泣かせの場面もあります。しかしながら決して荒事ではなく、武将や戦をテーマとする修羅物(しゅらもの)でありながら、一貫して忠度の和歌への愛や執念が描かれています。それがいかにも世阿弥らしく、お能としての美しさに溢れています。

「忠度」の特別映像では、そのあたりに着目して観ていただけたら、より演目への理解が深まることと思います。

 

tadanori
能楽協会 特別映像より能「忠度」の1シーン

 

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