平安時代末期、時の権力者であった平氏打倒の最大の功労者・源義経は、兄・頼朝と対立し、奥州藤原氏を頼って平泉に落ち延びたものの、頼朝の追及から逃れることができず、自刃したと言われています。この史実に対し、「平泉で自害したのは実は家臣で、義経は北へ逃げ延びたのではないか」という「義経北行伝説」が残っています。事実、岩手県から北海道の各地には、それを裏付けるかのような伝説が数多く伝えられており、義経一行が立ち寄ったり滞在したとされる社寺・屋敷はかなりの数にのぼります。800年以上の時を越えて、その伝説のルートを辿る壮大な歴史ロマンあふれる旅へご案内します。
前編では、岩手県内に残る義経の足跡をご紹介しましょう。
義経はチンギス・ハンと同一人物!?
義経北行伝説では、義経は成吉思汗(チンギス・ハン)と同一人物だったと言われています。日本の正史「吾妻鏡」によると、義経は1189年、頼朝の追及を受けた奥州藤原氏の四代泰衡に攻められ、平泉で妻や娘とともに自害して果てたことになっています。一方、成吉思汗が歴史の表舞台に登場するのは、義経自害からおよそ5年後の1193〜1194年なので、義経が実は平泉から密かに脱出して遠野、宮古、久慈、そして青森県の八戸、青森へと逃げ、海路で北海道に渡り、樺太、モンゴルへと移動して成吉思汗と名乗ったという伝説が生まれました。
しかも、上記ルートには、義経の足取りを伝える史跡や、義経ゆかりの地名が多く残され、800年以上経った現在でもその土地の人々に受け継がれているのです。
平泉から遠野へ
義経が最期を遂げたとされる平泉・高館義経堂を出発地として北へ
- 平泉町「高館義経堂」
-
高館義経堂は、頼朝から逃れてきた義経が藤原氏の三代秀衡より与えられた居館があった場所で、同時に義経が妻子とともに最期を遂げた地とも伝えられています。義経北行伝説では、義経一行は四代泰衡に急襲される直前に逃げ延びたことになっており、伝説の出発の地となっています。
- 一関市「観福寺」
-
観福寺(かんぷくじ)は、義経一行が投宿した際に、四天王の一人・亀井六郎重清が礼として残したとされる笈(おい、背に負う経文などを入れる箱)を所蔵しています。
- 奥州市「弁慶屋敷跡」
-
義経一行が立ち寄り、白粟五升を求め炊かせて空腹を満たしてから出発したと伝わるほか、この地の屋敷に、かつて弁慶が住んだことがあったとも言われています。
- 奥州市「玉崎神社」
-
義経が参詣し、道中の無事を祈願したと伝わり、義経にまつわる品々が保存されている宝物殿があります(見学は要予約)。
- 住田町「判官手掛けの松」「弁慶の足跡」
-
現在の葉山めがね橋付近は、義経一行が逃げる際に通った急勾配の地と言われ、橋のたもとには義経が手を掛けた「判官手掛けの松」、五葉川の岩場には、つま先からかかとまで約1.5mある「弁慶の足跡」が残されています。
- 遠野市「風呂家」
-
風呂家(ふろけ)は上郷町にある旧家。義経一行は赤羽根峠を越えて、この家で風呂を立てさせ入浴したことから、以後、この家の姓を「風呂」と呼ぶようになったと伝えられます。
- 遠野市「駒形神社」
-
赤羽根峠を越える際に亡くなった義経の愛馬「小黒号」を葬り、祠を建てた神社と伝えられています。
大槌から宮古へ
義経一行が3年3ヵ月潜伏していたとされる黒森神社など多くの足跡が残る宮古市
- 大槌町「駒形神社」
-
義経一行が、金売り吉次(東北の金を商って財を成し、義経に藤原氏三代秀衡を引き合わせたと言われている人物。能「鳥帽子折」にもワキとして登場)のいる長者森へ向かう途中、ここで馬を繋ぎ、しばし休息した地とされ、それをしのび、村人たちが祠を建て「駒形大明神」と称したと伝えられます。
大槌町には、義経一行が野宿したとされる地に村人が祠を建て「判官様」と呼んで尊崇してきた「宮ノ口判官堂」もあります。
- 山田町「山田八幡宮」
-
義経の腹心・佐藤継信の長男がここ山田に居住しており、義経が立ち寄った際に、後に継信の守り本尊となった観音像を託したとされています。山田八幡宮には、この観音像がご神体として安置されています。
- 宮古市「鈴ヶ神社」
-
鈴ヶ(すずが)神社は、義経の愛妾・静御前の屋敷跡で、難産の末、命を落とした静御前をしのび建立されたと伝えられます。
- 宮古市「日向日月神社」
-
日向日月(ひなたにちげつ)神社は、義経一行が参拝した神社と言われ、義経と静御前との間に生まれた子とされる佐々木四郎太郎義高が祀られています。
- 宮古市「判官稲荷神社」
-
近くの黒森神社に潜伏していた義経一行が状況偵察のため訪れた神社で、一行が黒森神社を後にする際に甲冑を埋めた地とも伝えられています。義経が祭神になっています。
- 宮古市「横山八幡宮」
-
義経一行が参詣に訪れ、宿泊したとされる神社。家臣の一人、鈴木三郎重家は老齢のため、ここに残り、名を重三郎と変えて横山八幡宮の神主となったと言われています。
- 宮古市「黒森神社」
-
黒森神社のある黒森山は、その名が示すように、山が巨木に覆われ、うっそうとして「昼なお暗い山」だったと言います。義経一行は3年3ヵ月にわたって黒森山に籠もって行を修め、般若経六百巻を写経して奉納したと伝えられ、「黒森」は、義経の「九郎森」から転じた名であると言われています。
- 宮古市「久昌寺」
-
源氏の一族である源義里がここに居館を構えていたことから、義経一行が立ち寄ったと言われています。久昌寺(きゅうしょうじ)には、義里の妻・源氏御駒から奉納されたとされる鰐口(仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種)が残されています。
田野畑から久慈へ
次の八戸まで海路を使ったとも言われているエリア
- 田野畑村「畠山神社」
-
義経の討伐に差し向けられた武将・畠山重忠がここに到着したとき、愛馬が脚を折って倒れたため、馬から外した鐙(あぶみ)を埋めたと伝えられます。鐙は神社内に奉納されていましたが、現在は田野畑村民俗資料館に展示されています。
- 普代村「鵜鳥神社」
-
義経がこの地で金色の鵜が子育てをしているのを見て神鳥であると確信し、道中の無事を祈願したところ、「汝の願いを聞き入れよう」との神のお告げがあり、感謝した義経が鵜鳥大明神を祀り、旧暦の4月8日を祭典としたとされています。鵜鳥(うのとり)神社は、古くから「うねどり様」と呼ばれ、大漁・海上安全・縁結びの神として信仰を集めています。
普代村には、追っ手として義経と対峙し、その人徳に心打たれて家来となったとされる比企藤九郎藤原盛長が祀られる祠「籐九郎様」と、義経を追っ手から守り亡くなったとされる清河・羽黒・権現という3名の山伏が祀られる祠「清河羽黒権現」もあります。
- 久慈市「諏訪神社」
-
久慈港を望む高台にある諏訪神社には、義経討伐の命を受けた畠山重忠が、逃げ延びようとする義経の姿に同情して、わざと矢を外し境内の松の幹に刺して助けたという伝説が残っています。神社にはその矢がご神体として祀られています。
【後編・青森編】では、青森県内に残る義経の足跡と、Googleマップによる義経北行伝説ルートをご紹介します。更新をお待ちください。
参考サイト:義経北行伝説ドライブガイド「義経は北へ」
写真協力:岩手県観光ポータルサイト・いわての旅