松山は、伊予松山藩時代に松山城内の能舞台で能が演じられることが多い地でした。明治時代になると、藩主所蔵の能面や装束を残そうとしたのをきっかけに能の定期奉納が行われるようになり、その後多数の能楽師の名人を輩出しました。

松山生まれで、現在も公演や稽古のために松山に足を運ばれることが多いシテ方喜多流の金子敬一郎さんに、松山城と能楽との関わり、松山における能楽の過去と現在、さらには今回、能楽協会 松山城 特別映像として制作している能「屋島」の魅力についてお伺いしました(喜多流では八島)。

金子敬一郎(かねこ・けいいちろう)

1968年、愛媛県松山市に生まれる。シテ方喜多流・金子匡一の長男で、父及び故・十五世喜多宗家 喜多実、塩津哲生に師事。

1972年に初舞台。1983年、単身上京して喜多宗家に入門。重要無形文化財保持者(総合認定)。

 

公益社団法人能楽協会 理事、東京支部著作権委員会委員、(公財)十四世六平太記念財団 理事

金子敬一郎公式ウェブサイト

小学生の頃は松山城の山全体を使って鬼ごっこ

松山出身の敬一郎さんにとって松山城はどんな存在ですか?

金子:中学3年の時に上京して喜多宗家に入門するまでは松山で過ごしました。今も稽古や公演などで月に1週間程度は松山に来ています。

松山城は勝山山頂にある平山城(低い山や小高い丘とその周囲の平地を利用して築かれた城)なので、松山市内のどこからでも天守閣を見ることができます。松山城は松山市のシンボルですし、市民が散歩に出かける憩いの場でもあります。

小学生の時には、勝山全体を使って鬼ごっこをしました。けっこう壮大な鬼ごっこでした(笑)。その頃から松山城は全然変わりません。夜のライトアップがきれいになったくらいですね。

松山城のおすすめスポットは、桜の頃の天守閣です。桜越しに見る天守閣の美しさはもちろん、天守閣からの眺めもまた素晴らしいです。天守閣が市内のどこからでも見えるということは、逆にいえば、天守閣からは松山市のすべてが見えるということですから、ぜひ天守閣に登って壮大な眺望を楽しんでいただけたらと思います。

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天守からの壮大な眺望。天気の良い日には、広島・山口・西日本最高峰「石鎚山」が見渡せる
  • 写真協力:松山市公式観光WEBサイト

松山城の能面装束をきっかけに始まった「東雲さんのお能」

松山城と能楽との関わりについて教えてください。

金子:伊予松山藩時代の松山城には二の丸と三の丸に能舞台があり、藩の式楽として能が演じられていました。シテ方は喜多流、ワキ方には下掛(しもがかり)宝生流が採用されていましたが、11代藩主の松平定通(まつだいら さだみちがことのほか下掛宝生流を好み、後には能の地謡まで下掛宝生流で謡われるようになりました。また、城下町でも町人による町能が催され、こちらは観世流が担当していました。

その後明治維新を迎えると、旧藩主が東京に移住することになり、城に残された藩主所蔵の能面や装束が競売に出されることになりました。

このとき、面装束の散逸を懸念して奔走したのが、下掛宝生流で地頭(じがしら=地謡の統率者)を勤めていた池内信夫(俳人として有名な高浜虚子の父)さんなど松山の能楽愛好者の方たちでした。まずは彼らが中心となって払い下げを受け、その資金調達のため演能団を組織して活動しました。しかし運営が困難となり、払い下げ代金の残額棒引きの代わりにそれらを全部東雲(しののめ)神社へ寄付。旧藩主からも若干の演能料も下賜され「東雲さんのお能」と言われる能の定期奉納が明治8年(1875)ごろから始まりました。

東雲さんのお能によって松山の能楽師による「松山能楽会」が結成され、また多くの名人を輩出しました。

高浜虚子の兄で松山能楽会の重鎮だった池内信嘉(のぶよし)さんは松山の能楽師たちを東京へと送り出しました。

大鼓方の川崎九淵(きゅうえん)さんは後に人間国宝になられました。

うちの曾祖父の金子亀五郎も上京後、喜多流師範(今の職分)総取締役となりました。

後に、信嘉さんは自身も上京され、雑誌『能楽』を発刊し、現・東京藝術大学に能楽囃子科を設けて教授になるなど後継者の育成にも努められました。

その後も、やはり上京して人間国宝になられた下掛宝生流の宝生弥一さんなど、当時の能楽界に貢献した松山の能楽師は多かったと聞いています。

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平成4年(1992)の「東雲さんのお能」で能「岩船」のシテを勤める金子敬一郎さん

松山では「能は自分でやるもので観るものではない」

現在の松山での能楽状況について教えてください。

金子:松山は能がさかんと言われ、能の稽古をされている人は人口比でいうと多いと思います。

それも、一人で謡や舞から、全種類の囃子まで稽古をされているような方もいらっしゃいます。また、ひと昔前までは、松山の会社には社員の趣味サークルとしての能楽倶楽部が必ずありましたし、能の稽古に子どもを連れてくる光景なども当たり前のように見られました。

松山市にあるうちの実家には金子舞台という稽古舞台があるんですが、元は祖父が稽古をつけに通っていた寺にあった舞台なのです。当時の住職さんが能に対して大変情熱的で、ついに寺に能舞台を造ってしまったんですね。このような土地柄ですから、今も素人による能公演が多く催されています。

松山城の二之丸史跡庭園に特設能舞台を設けて毎年5月に開催されている「二之丸薪能」もそのひとつです。さまざまな流儀の素人さんたちが出演されます。主催団体は「愛媛能楽協会」ですが、こちらにはプロの能楽師は入ることができないんです。
このように、松山には「能は自分でやるもので観るものではない」という風潮があります。

そんな状況の中、父の代から続けているのが当家主催公演の「松山喜多流能」です。これは、地方都市の松山でも、東京・大阪・京都といった大都市圏で行われているのと同水準の能を観ていただきたいとの思いから始めたもので、第一線で活躍している能楽師を松山に招いて毎年7月の第二日曜日に行っています。

本公演によって、少しでも能楽の裾野を広げることができたらと、学校に招待券を配ったりという努力を続けてきた結果、これまで能とは縁がなかったというような方にも毎年足を運んでいただけるようになりました。

財政的には厳しい公演ですが(笑)、能の普及のためにも自分に課せられた義務と思い続けていく所存です。

戦が好きでたまらないといった義経の動きが魅力

松山城の特別映像で採用している能「屋島(喜多流では八島)」の魅力について教えてください。

金子:屋島」は世阿弥が作った人気曲で、源義経の霊が前シテ(前半の主役)は老翁、後シテは当時の甲冑姿で凛々しく登場し、香川県高松市屋島を舞台とした往事の戦の様子を勇猛に活き活きと語ります。
武将や戦をテーマにした「修羅物」というジャンルの曲で、その中でも勝利者側の語りとなるため「勝修羅(かちしゅら)」に属します。

修羅物でありながら、修羅道に堕ちた苦しさは感じられず、むしろ死んでもまだ戦ができるぞと嬉々として戦っている、戦が好きでたまらないとでも言う義経が垣間見えます。義経というと判官びいきで悲劇のヒーローといったイメージが一般的ですが、「八島」ではそれとはまったく別の戦好きな義経像が描かれているように感じます。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも似たような描き方をされていますが、個人的にはこちらのほうが実際の義経に近かったのではないかと思っています。「八島」は修羅道に堕ちてもなおかっこよさを見せる、そこに勝修羅らしい祝言性や強さが感じられます。

見どころは、もうこれは素直にカッコイイ動きの一つひとつを楽しんで観ていただけたらと思います。

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特別映像の収録時、松山城 天守閣にてシテの源義経を演じる敬一郎さん

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