織田信長というと「戦の前に“人間五十年〜”と謡いつつ舞い、それが済むと立ったまま湯漬けをかきこんで戦場に向かう」そんな場面を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。この時の「人間五十年〜」の謡と舞は能のことだと思われている方もいると思います。

実は「幸若舞(こうわかまい)」と呼ばれる芸能で能とは別のものなのです。そしてその演目は、能の演目にもある「敦盛(あつもり)」になります。本記事では、信長が愛した「幸若舞」と「敦盛」についてご紹介します。

能「敦盛」と勘違い?「人間五十年」が能と誤解される理由

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清洲公園(愛知県清須市)に建つ織田信長公銅像

よく描かれる信長のイメージは、『信長公記(しんちょうこうき/のぶながこうき)』という信長の一代記によるものです。

信頼性の高い資料として知られ、下記は「桶狭間の戦い」を記述したものですが、信長が「人間五十年」=「敦盛の舞」を好んだことがうかがえます。

『信長公記』より

此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度(ひとたび)生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺(ほら)ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具(おんもののぐ)召され、たちながら御食(みけ)をまいり、御甲(おんかぶと)めし候ひて御出陣なさる。

敦盛の舞」という記載から、この曲が源平合戦で討死した平敦盛を描いた曲ということが分かります。

能に「敦盛」があることから、「人間五十年」の一節が能であるという勘違いが生まれてしまったようですが、実は信長が好んだこの「敦盛」は幸若舞と呼ばれる芸能で、能とは別のものです。

もう一つの式楽? 幸若舞とは

幸若舞は中世に流行した曲舞(くせまい)という芸能の一種で、室町時代に越前の桃井直詮(もものい なおあきら)という人物によって創始されたと言われています。幸若舞の名は直詮の幼名「幸若丸」に由来します。

幸若舞とは、『平家物語』『義経記』『曽我物語』といった軍記物語や神仏の縁起といった物語を、拍子を取り、節を付けて謡いながら舞う芸能で、戦国から安土桃山時代にかけて各地に名伝播し隆盛しました。多くの戦国武将に愛好され、信長や秀吉は幸若舞の大夫(一座の棟梁)に領地を与え、家康も江戸幕府が開かれると能の大夫と同様に幸若舞の大夫も召し抱え、参勤を命じたのです。

これは幸若舞が能楽と同様、江戸幕府の式楽であったことを意味します。幕府による庇護は明治維新まで続きますが、能楽が幕府の崩壊後も現在に至るまで存続してきたのに対し、幸若舞は残念ながら芸の継承がほとんど途絶えてしまいました。

現在、唯一残されているのが、福岡県みやま市高瀬町大江の幸若舞保存会によって継承されている「大頭(だいがしら)流幸若舞」です。この大江の幸若舞は、昭和51年(1976)に国の重要無形民俗文化財の指定を受けてからも、節回しや舞の復元が行われるなど、地元の方々によって大切に継承されています。

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大江の幸若舞は、毎年1月20日に大江天満神社の舞堂で奉納が行われています

能と幸若舞に描かれた「敦盛」の物語

能と幸若舞に取り上げられ、信長をはじめ多くの武将に好まれた演目「敦盛」とはどんな物語だったのでしょうか。

平敦盛は平安時代末期の武将で、平経盛の子。平氏政権を打ち立てた平清盛は叔父に当たります(清盛と弟の経盛は異母兄弟)。官位(身分のランク)は貴族として認められる一番下の従五位下(じゅごいのげ)で、官職についていなかったので「無官の大夫(むかんのたいふ/たゆう)」と呼ばれました。

一番下の位、というのもむべなるかな、この敦盛が一ノ谷の合戦に参加し、源氏の武将・熊谷直実(くまがいなおざね)に首を取られ討死したのが、わずか17歳(16とも)。現代の成人式である元服(げんぷく/げんぶく)が当時は12~16歳ごろに行われたとはいえ、あまりにも早く、あまりにも短い生涯です。

また一番下の位とはいっても平安時代の貴族と呼ばれる人々は、当時の人口の0.003%程度だったという統計もあり、敦盛がいかに家柄、血筋に恵まれていたかは推して知るべしでしょう。

能および幸若舞の「敦盛」の典拠である『平家物語』では「敦盛最期」という一段をもって、この平家の公達(きんだち、貴族の子弟のこと)の最期が語られます。

『平家物語』「敦盛最期」より

取つて押さへて首をかかむと甲(かぶと)を押し抑(あおの/の)けて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧して鉄漿黒(かねぐろ)なり。我が子の小次郎が齢(よわい)ほどにて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。

『平家物語』「敦盛最期」意訳

討ち取って名を上げるための良い敵を見つけた、と勝負を仕掛けてみれば相手は自分の子供ほどの年齢の若武者で、どこに刀を刺してよいものかもわからない、と直実は狼狽します。

この後、直実は思い悩んだ末、命を助けようとして名を尋ねますが、若武者は答えず「ただ首を取って人に問え」と言うばかり。やがて駆けつけてくる味方の手前、助けることもできなくなり、他の人間の手にかけるよりは、と泣く泣く首を取ります。

しばらくさめざめと涙を流していた直実でしたが、さて直垂(ひたたれ)を脱がせて首を包もうと遺骸をあらためると、若武者は錦の袋に入れた笛を腰に差していました。

「この明け方に聞こえてきた音楽は、この若武者たちが奏でていたのか。今、味方の坂東武者が何万人いるかわからないが、戦場に笛を携えてくるものなど一人もあるまい。なんと心優しい人々だ」

そう呟いて、直実はさらに心打たれるのでした。

果たして陣中に戻り、この笛を見せると大将・源義経をはじめとして涙を流さない者はいません。直実は自分が討ち取った若武者が、笛の名手として知られた平敦盛であったことを知り、出家の決意を強くするのでした。敦盛が最後まで携えていた笛は「小枝(さえだ/青葉の笛とも伝わる)」と名付けられた名笛(めいてき)でした。

『平家物語』のこの段をもとに、能では出家して蓮生(れんしょう/れんせい)と名乗った直実が、一の谷で敦盛の亡霊と出会う後日譚として、また幸若舞では合戦の前後を付け加え、心理や情景の描写を詳細に描き、直実が出家しその生涯を終えるまでの発心譚(ほっしんたん、仏道をこころざす物語)として脚色しています。

はかなさといさぎよさ 「敦盛」の魅力

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能楽を旅する 岡山後楽園特別公演 能「敦盛」より

悲劇のヒロイン、ヒーローの物語というものは誰しもが好むものです。『平家物語』では日本でもっとも有名な悲劇のヒーローである源義経のことも語られます。他の軍記物語や芸能にも取り上げられ、「判官びいき」という言葉が生まれるほど、義経の物語は広まりました。

そうした中、なぜ信長をはじめとした多くの戦国武将たちは「敦盛」の物語を愛好したのでしょうか。想像するよりほかはありませんが、その理由には「敦盛」には、はかなさいさぎよさがあるからかもしれません。

平敦盛は初陣の一の谷で戦死したため義経のような武勲は無く、ヒーローと言える要素はありません。しかし、死を目の前にして「ただとくとく首を取れ」と言い放ついさぎよさには、単に平家の名門に生まれたおぼっちゃまとはいえない芯の強さがあるように思います。

また敦盛の短すぎる生涯には、はかなさがあります。これは『平家物語』全体のテーマでもありますが、「世の無常・無常観」ということを物語るものだと思います。

幸若舞「敦盛」の「人間五十年」の一節は直実が出家を決意する場面のもので、とても出陣を鼓舞するような内容ではありません。ではどうして信長は、この一節を舞って戦場に赴いたのか。幸若舞や能に残された「敦盛」に触れることで、その答えの一端が垣間見えるかもしれません。

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