能楽は江戸時代の幕府の儀式で用いられる芸能(式楽)となり、各地の城や大名屋敷には能舞台が設けられ、祝い事や節目の行事で能が催されました。

全国にある城の一部では往事の能舞台が残っていたり、当時城内にあった能舞台を移築して管理をしている箇所があります。本記事ではこれらの能舞台や能楽堂を訪ね、歴史や背景を探ります。

城内に建つ能舞台・能楽堂

滋賀県 彦根城博物館能舞台

江戸時代の城に実際にあった貴重な能舞台が現存!

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彦根城博物館能舞台。能楽を旅する 彦根城特別公演 能「巴」より

彦根城の二の丸にある彦根城博物館、その中央に能舞台があります。この能舞台は寛政12年(1800)に井伊直弼の父・直中によって城内の表御殿に建てられました。江戸時代の城に実際にあった能舞台として現在も残っているものは、ここ彦根城だけと言われています。

明治以降は井伊神社に移され、彦根市内の神社を転々とします。最終的には昭和60年(1985)に表御殿を復元して建設された彦根城博物館内に移築され、再びもとの城内へと戻りました。

博物館へ入館すれば、公演がなくても気軽に見学ができるようになっています。能舞台自体は屋外にあり、別棟の客席に囲まれ、そこから演能を鑑賞する昔ながらの造りになっており、外の空気感や四季の移ろいを感じながら能楽を楽しめます。この能舞台の下からは音響を高める効果がある漆喰製の桝(ます)が見つかっていることから、当時も十分な配慮のもとに設計されていたことがうかがえます。

彦根城博物館能舞台では、毎年各流儀の能楽師が出演する「彦根城能」や「狂言の集い」が開催されているほか、2022年には能楽協会主催の「能楽を旅する 彦根城特別公演」が開催され、由緒ある能舞台での公演として好評を得ました。

岡山県 岡山後楽園能舞台

座敷に囲まれた屋外中庭にあり、江戸時代そのままの趣を残す

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江戸時代、後楽園に実在していた能舞台を忠実に復元した岡山後楽園能舞台

岡山城の北側には、日本三大名園のひとつに数えられる岡山後楽園があり、その庭園内に能舞台があります。岡山後楽園は岡山藩2代藩主・池田綱政が「やすらぎの場」として造った大名庭園となります。

能舞台は、江戸時代に後楽園に実際に存在していた舞台を忠実に復元して昭和33年(1958)に建てられました。能舞台の周囲を座敷に囲まれた屋外中庭にあり、舞台正面に能の見所として建てられた座敷「栄唱の間」から演能を鑑賞する造りです。江戸時代そのままの趣を残す、数少ない貴重な能舞台です。

また、能舞台の周りには白い小石が敷き詰められた白州(しらす)となっており、白州に陽が差して西日が当たると反射光が舞台をやさしく照らし、間接照明の役目を担っています。

普段は一般公開されていませんが、毎年11月3日(文化の日)には「後楽能」が開催されるなど、多くの人々が能や狂言に親しめる場となっています。

2022年には能楽協会主催「能楽を旅する 岡山後楽園特別公演」が開催されました。

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演者と観客、そして能舞台との一体感が伺える。能楽を旅する 岡山後楽園特別公演 能「敦盛」より

愛知県 岡崎城 二の丸能楽堂

家康が誕生した城跡に建つ野外能楽堂

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かがり火をたいて薪能も楽しめる岡崎城二の丸能楽堂 ※写真提供:岡崎市

能を愛した徳川家康の生誕城である愛知県岡崎市の岡崎城跡は、明治初期岡崎公園として整備されました。さらに、昭和34年(1959)には三層五階の復興天守が再建され、「日本100名城」に選定されました。その岡崎公園内の二の丸があった場所に建つ本格的な屋外能楽堂が、岡崎城二の丸能楽堂です。

岡崎城二の丸能楽堂は平成元年(1989)にシテ方観世流の故・観世栄夫先生をはじめとする各界の第一人者の監修により、全国でも珍しい市立能楽堂として完成しました。正門や白壁に囲まれ、岡崎城との調和も美しく、野外能楽堂ならではの自然と一体化した舞台が魅力です。

現在この能楽堂は能楽公演のほか、毛氈(もうせん)を敷いてコンサートなどでも活用されています。

岡崎市はジャズの街としても有名で、毎年11月には「岡崎ジャズストリート」のメイン会場として岡崎城二の丸能楽堂が使われています。催しのない日は自由に見学をすることでき、また岡崎公園内に建つ「からくり時計」では、能を舞う家康公の自動人形が楽しめます。

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毎時00分・30分に能を舞う家康公の人形が登場する、からくり時計 ※写真提供:岡崎市

かつて城内にあった能舞台(城から移築された能舞台)

広島県 沼名前神社 能舞台

伏見城で秀吉が使用したと伝わる貴重な能舞台

沼名前(ぬなくま)神社の境内にある能舞台は、もとは京都の伏見城内にあった豊臣秀吉遺愛の組立式の舞台と伝えられています。元和6年(1620年)伏見城解体の際に福山藩初代藩主の水野勝成が徳川二代将軍秀忠から櫓などと一緒に拝領し、福山城に移したとされています。

その後、万治年間(1658〜1661)、3代勝貞のときに沼名前神社に寄進されました。

現在は常設舞台ですが、本来は分解して移設が可能な組立式であった点が珍しい舞台です。能舞台の随所に組立式の様式を留めており、各部材には番号・符号が付けられ凹凸の加工を施して差し込んで接合する形式があり、屋根はパネル式となっています。現在の橋掛りと楽屋などは後に建てられたものです。昭和28年(1953)に国の重要文化財の指定を受けました。

沼名前神社 能舞台は、現在も地元の能楽愛好家による演能などに使用されています。2021年には、こけらぶき屋根のふき替えが30年ぶりに行われました。

 

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現在は常設舞台ですが、本来は分解して移設が可能な組立式だった沼名前神社能舞台

石川県 中村神社拝殿[旧金沢城二の丸能舞台]

神社の拝殿として移築された江戸時代末期の能舞台

中村神社の拝殿は金沢城 二の丸御殿にあった能舞台を移築したものです。

江戸末期に建てられ、前田家歴代藩主自らが居並ぶ家臣を前に舞ったこともあったと伝えられています。明治維新の越後戦争で戦死した加賀藩武士の御霊を祀る招魂社(しょうこんしゃ)の社殿として、明治3年(1870)に金沢市の卯辰山に移築されました。

ちなみに、金沢城 二の丸の建造物は明治14年(1881)の火災でことごとく焼失してしまったのですが、この能舞台は移築後のため免れた形になりました。

しかし、招魂社は昭和10年(1935)に移転し、能舞台の社殿は置き去りにされました。そのまま30年もの間放置されていましたが、昭和40年(1965)に中村神社の拝殿建て替えの際に移築・転用され、現在の姿になりました。

桃山風建築様式で総ケヤキ造り、欄間には加賀藩木彫名匠の武田友月(ゆうげつ)作と伝わる一本彫りの龍が四方に配され、格天井には極彩色の絵があしらわれ、豪華絢爛な佇まいが残されています。平成16年(2004)に国の登録有形文化財に登録されました。

 

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中村神社拝殿の内部。現存する格天井と欄間

長野県 温泉寺本堂[高島城能舞台]

寺の本堂に姿を変えた江戸時代の能舞台

温泉寺は諏訪地域を治めた高島藩・諏訪家の菩提寺です。その縁から明治3年(1870)に大火で焼失した際、高島城内にあった能舞台が本堂として城門とともに移築されました。

高島城は、文禄元年(1592)から築城を開始し、諏訪湖湖畔に突き出した小島に築かれた平城として整備され、10代諏訪氏が高島藩の藩主を歴任して明治維新を迎えました。この能舞台は文政10年(1827)、8代藩主・諏訪忠恕(ただみち)の代に本丸御殿脇に造られたものです。

温泉寺本堂の建物は6間四方で、その真中に3間四方の本舞台、後座、地謡座などの遺構をそのままに残しており、大玄関に置かれた鏡板とともに市有形文化財に指定されています。

なお、温泉寺には歴代藩主の墓のほか、平安中期の歌人・和泉式部のものとされる墓もあります。また、織田信長が甲州征伐の際に奪略したとされる梵鐘が残されているほか、樹齢370年のシダレ桜など見どころの多い寺です。

 

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高島城能舞台を移築して復興された温泉寺本堂

城とともに時を刻んできた歴史ロマン溢れる能舞台

城内に建つ能舞台、そして、かつて城内にあり、他の場所に移築された能舞台、はたまた現在は寺の拝殿や本堂に姿を変えた能舞台をご紹介しました。

その背景にはさまざまな歴史ロマンが隠されていました。城とともに時を刻んできた能舞台。ぜひ現地に足を運んで、その歴史の足跡に触れてみてください。

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