熊本は、熊本城が築かれる以前から、能楽の源流である猿楽が盛んな土地でした。熊本城が築城され、赴任した大名たちは、猿楽を神社の祭礼に奉納する「御神事能(ごじんじのう)」として復興し、発展させました。現在も、熊本の各神社では御神事能が舞われています。

熊本で生まれ、喜多流宗家に入門のため上京してからも、熊本に足繁く通い御神事能の舞台を支える狩野了一さんに、熊本の能楽の過去と現在、熊本城への想い、さらに能楽協会 熊本城 特別映像として制作している能「白田村」の魅力についてお伺いしました。

 

狩野了一(かの・りょういち)

1967年、熊本県熊本市に生まれる。
シテ方喜多流・狩野丹秀の長男で、父及び故・十五世喜多宗家 喜多実、塩津哲生に師事。
1970年に初舞台。小学校卒業と同時に、喜多宗家に入門のため単身上京。
日本全国各地にて能公演及びワークショップに参加のほか、海外での能楽活動も多数。
重要無形文化財保持者(総合認定)。
公益社団法人能楽協会会員、熊本NHK文化センター講師

細川藩に仕えた9代続く絵師から能楽師へと転身した狩野家

熊本城と深い関わりを持つという狩野さんのご先祖様のことを教えてください。

狩野:先祖は京都から肥後細川藩に仕えた9代続くお抱え絵師でした。もとは細川忠興の次男である興秋公の傅(ふ=守役)となり、その後の代が絵を習い、絵師である狩野の門弟となって以来、狩野を名乗っています。そのような流れで細川家とともに熊本に入りました。

熊本は、加藤清正が熊本城を築く以前から、能楽の源流である猿楽が盛んな土地です。神社の祭礼にて奉納する「御神事能(ごじんじのう)」を友枝家(後に喜多流となる)や、金春流につながる古の家が担当していたと伝えられています。
そこに、加藤清正が金春流の武家役者・中村政長を連れて肥後に入った時に、藤崎八幡宮北岡神社における御神事能を整備して復興しました。

その後細川藩の時代になり、初代藩主・忠利と2代藩主・光尚が喜多流(友枝家)と金春流(中村家)を流儀として召し抱えます。御神事能も両流儀によって続けられました。

明治時代に入ると、自分でも「絵の才能がなかった」と言っていた祖父は絵師とは別の仕事につき、最初はお稽古事としてシテ方喜多流の友枝三郎先生の門下に入りました。当時は御神事能の数が多く、祖父は奉納の舞台で地謡、ツレ、ワキなどのお役を手伝う中で鍛えられ、後に喜多流の職分となりました。能楽師としての狩野家は祖父の勇雄が初代、父の丹秀と続き、私が3代目になります。

北岡神社
現在も御神事能が行われている熊本市の北岡神社

古い伝統と歴史を誇る各神社の能舞台で行われている御神事能

熊本における御神事能の現在について教えてください。

狩野:現在、御神事能は祖父の頃から比べると数こそ少なくなりましたが、各神社の能舞台で盛んに行われています。

毎年1月5日に藤崎八幡宮と北岡神社で行われる「御松囃子」からはじまり、各神社の春と秋の祭礼で仕舞や舞囃子が奉納されます。

お能が上演されるのは、藤崎八幡宮秋季例大祭の主要な祭典行事のひとつとして、熊本市 段山御旅所(だにやまおたびしょ)能舞台で奉納される演能です。この御神事能は、能の正式上演形式のひとつである「五番立て」の形態が残っており、400年以上続く古い歴史と伝統を誇ります。現在は最初に「」の素謡があり、その後にお能が喜多流と金春流で二番ずつ舞われます。
また、熊本城下の水前寺公園にある出水神社(いずみじんじゃ)の秋の祭礼では、能と舞囃子が喜多流と金春流で毎年交代しながら行われています。

これらの御神事能は、祖父がお手伝いさせていただき、熊本の能楽師の多くが上京したあとは亡き父が守ってきました。現在は喜多流の能楽師や門下のお弟子さんにご協力いただきながら、自身も舞台に立ったり、裏方を勤めさせていただいております。そのため、稽古なども含めると年間の約三分の一は熊本へ足を運んでいます。

御神事能は、演じる側からしても、能楽の根本にある自然に対する敬虔な気持ちを抱きながら、純粋に曲に向き合える貴重な場です。出水神社の舞台にしても水前寺公園の池が見える庭で舞うと心がスーッと伸びて能楽の原点に回帰したような気持ちになります。私自身、決して絶やしてはいけないものと思っています。

また、藤崎八旛宮秋季例大祭は祭り自体は有名ですが、そこで舞われるお能のことは意外と地元の方にも知られていません。野外能で気軽にご覧いただけますから、お近くの方はもちろん、県外の方も熊本旅行を兼ねてぜひ足を運んでいただけたらと願います。

DSC_0519
藤崎八旛宮例大祭での御神事能より 能「羽衣」
DSC_0578
藤崎八旛宮例大祭での御神事能より 能「猩々」
DSC_0475
藤崎八旛宮例大祭での御神事能より 能「八島」
DSC_1058
藤崎八旛宮例大祭での御神事能より 仕舞「経政」

坂上田村丸が神に近い存在として描かれスケール感が増す「白田村」

熊本城 特別映像で採用している 能「白田村」の魅力について教えてください。

狩野:能は演出にバリエーションを持った曲があり、「白田村」は「田村」のひとつの演出方法になります。

通常は小書き(特殊演出)として曲名に小さな字が入りますが、「白田村」は「白」という字が同じ大きさで題名の上につきます。これは喜多流独特のもので、小書きより扱いが重くなります。

「田村」は、武将や戦をテーマにした「修羅物」というジャンルの曲で、坂上田村丸(麿)の霊が鈴鹿山の鬼退治を語ります。勝ち戦の武将を主人公とする「勝修羅」に属し、修羅道に堕ちてしまったという悲壮感はなく、雄々しい姿が描かれ、祝言性も感じられます。

それが「白田村」になると、大きく変わるのは後シテ(後半の主役)の面装束で、天神という面と、白を基調とした装束になります。これは「白」という文字が神格化を表しているからです。謡も囃子も緩急が加わり、田村丸という人物が神に近い存在として描かれる点が魅力です。

「白田村」のシテを勤めたのはまだ一度だけです。なかなか舞わせていただけない演出で、それだけ流儀としても大事にしている曲と言えます。

難しいのは後半の登場シーンです。少ない動きの中で、後シテの威厳や強さ、スケール感を表現する必要がありますが、ただ気張って一生懸命やっても、その大きさを出すことはできません。先人が演じている舞台を何度も拝見して、憧れを持って演じたのですが、まだまだ力不足であることを実感させられた曲です。

白田村1
特別映像の収録時、熊本城で「白田村」のシテを演じる狩野了一さん

復興に向けて日々変化を重ねる熊本城をぜひご覧になってください!

熊本城での「白田村」の撮影時の感想などを教えてください。熊本城で「白田村」を撮影された時の感想などを教えてください。

狩野:今回の撮影で、熊本地震で被災し昨年6月にリニューアルオープンした天守閣内部に初めて入らせていただきました。

面装束をつけていたので、「最上階まで登ります」と言われたときは「このまま階段を登るの!?」と戸惑いました。リニューアルオープンでエレベータが設けられたことを知って安堵しました。そのため、大きなトラブルはなかったのですが、面をかけていたため、天守閣からの眺めを堪能できなかったのが残念でした(笑)。

天守
「白田村」の面装束で熊本城天守閣最上階に立つ狩野さん

熊本城の思い出・熊本城に対する想いを教えてください。

熊本城周辺は、小学校卒業と同時に(喜多流宗家に入門のため)上京するまでの自分にとって格好の遊び場でした。友人と鬼ごっこをしたり、二之丸広場や石垣下の空堀でサッカーの練習をしたことが思い出されます。

本丸御殿が平成20年(2008)に復元されたおりには、狩野家の先祖が描いた古い絵図面が復元の助けとなりました。実は、その絵図面は長い間行方不明になっていたのですが、復元のニュースを見て「あれはうちのだ!」と発見した次第でして(笑)、改めて寄贈させていただきました。

このように、熊本城は私にとって思い出深い場所であるとともに、熊本に生まれた者としての誇りでもあります。

熊本地震で大きな被害を受けた熊本城は、まだ復興半ばです。撮影でお伺いしたときも、その傷跡は残っていました。しかし、復興に向けて日々変化を重ねる熊本城の姿は今しか見られませんので、ぜひ足を運んでいただけたらと思います。

天守閣に登って熊本の町、そして遠く阿蘇の山並みを見ていただいたら、今度は市内から熊本城を見上げて、熊本の人たちが熊本城を誇りに思う気持ちを共有していただけたらと思います。

本丸御殿
狩野家の先祖が描いた絵図面が復元の一助となった本丸御殿(天守手前)

SNSでシェアする