安土桃山時代、能は多くの有名武将に愛され、室町初期にもまさる盛況を取り戻しました。その牽引役となったのが豊臣秀吉です。

秀吉は熱狂的な能の愛好家で、自身でも好んで能を舞ったほか、室町幕府以来の伝統を受け継ぎ、能役者への扶持米支給など庇護を行いました。

本記事では、秀吉の能への熱中ぶりが伺える逸話や、能楽に与えた影響をご紹介します。

秀吉の能楽への熱中は晩年期から

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秀吉が能の稽古を始めた佐賀県唐津市 名護屋城跡。
隣接して建つ佐賀県立名護屋城博物館では日本列島と朝鮮半島の交流の歴史を学習できます
  • 写真提供:佐賀県観光連盟

秀吉が能に傾倒するのは朝鮮出兵で肥前・名護屋(現在の佐賀県 唐津市)にいたときの57歳からと伝えられています。秀吉は文禄2年(1593)、新年のあいさつに名護屋に参上した素人役者・暮松新九郎(くれまつしんくろう)について能の稽古を始めます。能を習い始めた理由は、能と縁が深かった弟・秀長の影響を受けてと言われていますが、遅い能楽デビューと言えるでしょう。

稽古に関しては大変熱心で、本格的に稽古をはじめてからわずか50日足らずで十番(曲)の能を覚え、師の暮松新九郎から「もう人前で舞っても大丈夫」と太鼓判を押されたということです。

同年10月には、禁中(天皇の住まい。京都御所)で大々的な演能の舞台「禁中能」を3日間にわたって催し、徳川家康や前田利家などにも演じさせたほか、自らも3日間で十六番を舞い、後陽成天皇にお目にかけたことが伝えられています。
禁中能の実態について伝える「禁中猿楽御覧記」によると、シテの秀吉の謡を師匠の暮松新九郎が「添え声」で助けたとあります。その一方で、禁中能後、世阿弥作の秘曲「関寺小町」などの難しい曲も演じていた記録や秀吉の能を高く評価した文書なども残されています。

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豊臣秀吉画像(佐賀県重要文化財)
  • 所蔵者:佐賀県立名護屋城博物館

「豊公能」について 主人公は自分自身?

秀吉は、能を習い始めた翌年の58歳のときに自分自身の業績を称えたものを新作能として作らせました。これは「豊公能(ほうこうのう、または太閤能)」と呼ばれる十番の能ですが、謡本で伝わっているのは「吉野詣」「高野参詣」「明智討」「柴田」「北條」の五番です。

豊公能 有名な曲

吉野詣 吉野に参詣した秀吉の前に蔵王権現が現れ、秀吉の治世を賛美する

高野参詣 母・大政所の三回忌に高野山に参詣した秀吉の前に大政所の亡霊が現れ、秀吉の孝行を称える

明智討 秀吉が光秀を討ち主君・信長の恨みを晴らした山崎合戦を描いた曲

柴田 柴田勝頼の霊が現れ賤ケ岳の戦いで秀吉に討たれ自害した最期を語る

北條 北条氏政の霊が現れ秀吉が小田原攻めの際に籠城の末、自害した最期を語る


この五番は、近年、復曲(現在上演されていない「廃曲」を復活上演すること)されています。また、平成12年(2000)には、金春流第80世宗家・金春安明 氏が所蔵する番外謡本の中から、「この花」という曲が発見されました。「この花」は、秀吉の前に梅の精が現れ、秀吉の世の天下泰平と長寿を祝福する曲で、後に復曲されました。

秀吉は、これらのほぼすべての曲を自ら舞ったようです。能を愛好した権力者は、足利義満ほか数多くいますが、自分の生涯を能にして、しかもそれを自分で舞うということができたのは秀吉だけです。普通は恥ずかしくてできないようなことも平気で行ってしまえるのは、逆に考えると能に対して無邪気で純粋だったからとも思えなくもありません。

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令和元年(2019) シテ方金春流 山井綱雄氏が「梅の精」を演じた豊公能「この花」
  • 撮影:辻井清一郎

秀吉の能楽育成 大和猿楽四座の保護&南部両神事能の復興

秀吉は能を愛好しただけでなく、その後の能楽の慣習や制度にも大きな影響を及ぼしました。そのひとつが、大和猿楽四座に対する保護です。

自分が贔屓にしていた金春をはじめ、観世・宝生・金剛の大和猿楽四座の役者たちに給与(配当米)を支給するとともに、ほかの多くの座を大和猿楽四座に吸収・統合させました。この保護政策が次代にも受け継がれたことで、能は今日まで続くことができたとも言えます。 なお、秀吉の死後、大和猿楽四座の大夫は、その恩顧に報いるため秀吉を祀る京都の豊国神社の祭礼に参勤し、四座による能を催しました。

もうひとつが、南都両神事能の復興です。南都両神事能とは、奈良の興福寺薪能(薪猿楽)春日若宮祭能のことで、応仁・文明の乱以降、長らく廃絶寸前の状態となっていましたが、秀吉の後援により復興されました。

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豊国神社(京都)に建つ豊臣秀吉像

能に対するバイタリティー、ひたむきさが魅力

秀吉が能に没頭したのは、晩年の10年に満たないわずかな期間でした。しかし、その間には「のふにひまなく候(能で忙しくて暇がない)」と妻・北政所(寧々)に手紙を送るほどの熱中ぶりでした。
高齢化社会の進む現在ですが、戦国時代に齢60近くなってから新しい芸能に挑戦する様は、まさにバイタリティーの鑑です。
そして秀吉の能楽熱中ぶりは、自分で舞い、それを人に見せるだけでなく、他の大名や近習たちにも勧めて舞わせるなど、ともかく能にひたむきだったと言えます。現代において失われつつあるバイタリティーとひたむきさ、秀吉に見習いたいものです。

 

参考文献/『能に憑かれた権力者〜秀吉能楽愛好記』(著者:天野文雄、発行:講談社)、『能・狂言事典』(発行:平凡社)

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