徳川家康も大の能好きとして知られ、関ヶ原の戦いに勝利して天下人になると、秀吉同様に能役者に配当米や所領を与えて能を庇護しました。本記事では家康と能にまつわるエピソードを紹介しながら、家康の能に対する思いや人柄などを紐解いていきます。

秀吉と違い、幼少の頃から能の稽古を受け、実力も見識もあった家康

家康は、少年期に人質として駿府城(現在の静岡県静岡市)の今川氏に預けられていた頃から能に親しみ、観世十郎大夫から稽古を受けていました。

秀吉とは違い、幼少の頃から能の稽古を受けていたことから、能の実力も見識もあったことが伺えます。

浜松城時代の家康には、能の師として観世十郎大夫の弟である七世観世大夫元忠宗節が仕えました。この二人の深い結びつきを示す逸話が伝わっています。

元亀3年(1572)、三方ヶ原の戦いで、武田信玄の軍に攻められ、浜松城に逃げ帰った家康は、兵も城に戻れるように城門を開けます。そして討ち死に覚悟で宗節に舞を所望します。しかし、開け放たれた城門を見た武田軍は敵の警戒心を誘う奇策と誤解して撤退してしまいました。この勝利を記念し、城で新年最初に能の謡曲を謡う儀式「謡初(うたいぞめ、うたいはじめ)」で「弓矢立合(ゆみやたちあい)」という戦勝の曲が舞われるようになったと伝えられています。

また、浜松城に逃げ帰ったとき、家康はあまりの恐怖に粗相をしてしまいました。これを見た宗節が着物を取り替えて自分が粗相をしたように見せて家康の面目を保ったため、家康は大きな恩義を感じたというエピソードもあります。

慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍に任ぜられた際に二条城で将軍宣下祝賀能を3日間にわたって盛大に催し、大和猿楽四座に演能させています。以後、この慣習は歴代の徳川将軍に継承され、能は江戸幕府の式楽(しきがく/公的な儀式で演じられる芸能)として定着していきました。

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駿府で能の稽古をはじめた竹千代時代の家康像(左)と今川義元像(JR静岡駅前)

老獪な家康は、秀吉を油断させるためにわざと不格好を演じた?

幼少期から能に親しんでいた家康は、元和2年(1616)に亡くなるまで能を愛好し続けました。家康は自ら能を演じた記録や逸話が数多く残っており、その中でも秀吉が主宰した能楽の会でのエピソードが有名です。

その会には、家康をはじめ、加藤清正、黒田長政、浅野幸長、石田三成、島津義弘らの名だたる武将が集まっていました。家康は秀吉の御前にて能「船弁慶(船辨慶)」で源義経役を演じました(現在は子方が演じる)。このとき、太った老人の家康はとても義経には見えず、どうにも不格好でしたが、それが逆にみなの笑いを誘い、大いに場を沸かしました。しかし、この逸話は実は老獪な家康があえて自分に似合わない役柄を演じ、道化の役回りに徹することで、秀吉を油断させる意図があったのではないかとも言われています。

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岡崎公園の徳川家康銅像(愛知県岡崎市)
  • 写真提供:岡崎市

プロもびっくり? 故実を知る家康

家康が能に堪能だったことを示す記録も残っています。

その一つが、文禄2年(1593)10月、秀吉が禁中(天皇の住まい、京都御所)で3日間にわたって大々的に催した「禁中能」での家康の演能です。

禁中能には、秀吉以下、徳川家康、浅井長政、宇喜田秀家(岡山城主)、織田常真(=信雄、信長次男)、織田秀信(信長の長男信忠の子)、蒲生氏郷(会津若松城主)、小早川秀秋、徳川秀忠、細川幽斎、細川忠興(幽斎の長男)、前田玄以(京都所司代)、前田利家(加賀金沢城主)、毛利輝元(広島城主)等々、有名武将が顔を揃え、自ら能楽を演じました。

このとき、家康は能「野宮(ののみや)」と「雲林院」のシテを勤めたほか、狂言「耳引(みみひき)」を演じています。

このうち「野宮」については、当時の家康がすでに専門的な能の知識と技術を持っていたことが伺える資料があります。

通常、主に役の登場に伴う導入の謡「次第」は、シテが謡うと次に地謡が低い音で繰り返しますが(「地取り」と言う)、当時の資料によると家康はさらにもう一回、地取りと同じような「」(最低音)で謡ったそうです。これは「三遍返し」という謡い方で、他の演目にはありますが「野宮」にはない演出だったことから、みな不審に思ったところ、実は過去に観世大夫が同様に謡っていて、観世流の故実ある謡い方だったということです。

また、狂言の「耳引」は、秀吉と前田利家とともに、時の大権力者3人で演じたという記録が残っています。現在「耳引」というタイトルの狂言はありませんが、耳を引っ張る演技があることから、現在の「口真似」もしくは「居杭」のどちらかだろうと言われています。禁中能の中では余興的なものだったと思われますが、さぞや場が盛り上がったことでしょう。

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家康が贔屓にしていた鷺流狂言師・鷺仁右衛門宗玄(さぎにえもんそうげん)に
贈られた小袖(白練緯地松皮菱竹模様)

生涯にわたって能を愛好し続けた家康

信長や秀吉の下で力を蓄え、天下統一を成し遂げた家康は、「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」という句に例えられるように、粘り強い忍耐力のある武将だったと言われています。能に対する姿勢もまた同じで、幼少の頃から能に親しみ、亡くなるまで能を愛し続けたことが、数々の逸話から伺えます。

家康のように、生涯にわたって楽しめる奥深い魅力が能楽にはあるのでしょう。

 

 

参考文献/『能に憑かれた権力者〜秀吉能楽愛好記』(著者:天野文雄、発行:講談社)、『能・狂言事典』(発行:平凡社)

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