能は、室町から安土桃山時代にかけて足利義満や豊臣秀吉といった時の権力者に守られ、武家社会とともに大きく発展しました。
やがて時代が江戸に移ると、徳川将軍の庇護の下、幕府の式楽(しきがく/公的な儀式で演じられる芸能)として定着したと言われています。
能がいかにして江戸幕府の式楽となったのか、その変遷を辿ります。
初代将軍・徳川家康 豊臣時代の慣習から引き継いだ能の保護
幼少の頃より能を習い、自ら舞うこともあったとされる徳川家康は、能の愛好者でした。家康は熱狂的な能好きであった豊臣秀吉より能の保護を引き継いだのです。
関ヶ原の戦いに勝利し天下人となると、秀吉の庇護下にあった観世座・宝生座・金春座・金剛座の大和猿楽四座を大坂から駿府(静岡県静岡市)に拠点を移させて秀吉同様に保護します。秀吉が設けた猿楽配当米の制度も踏襲し、能役者に配当米や所領を与えました。
慶長8年(1603)、征夷大将軍に任ぜられた際には二条城で将軍宣下祝賀能を3日間にわたって盛大に催して、大和猿楽四座に演能させています。以後、この慣習は歴代の徳川将軍に継承されていくこととなりました。
二代将軍・秀忠 新流派・喜多流の樹立で新風を吹き込む
前時代の慣習を引き継いで能を保護したのが初代家康であったなら、新流派を立ち上げ、能の世界に新しい潮流を作ったのが二代将軍・秀忠です。
秀忠は金剛座の北七大夫長能(きたしちだゆうおさよし)を大変ひいきにし、姓を喜多に改名させたあとに喜多流の創設を認めています。
江戸時代初期の諸藩大名にとって能は幕府向けの外交政策のひとつでもありました。多くの諸藩大名が将軍にならって喜多流を支持したことにより、喜多流は新設流派ながら大きな存在感を示すようになります。
秀忠の愛顧を受けた喜多流は、ついには旧来の大和猿楽四座に並んでシテ方を演じる流派となり、現在に続く四座一流の体制が整いました。
秀忠が将軍になった際の将軍宣下祝賀能は、慶長10年(1605)に伏見城で催されました。
その翌年に江戸城本丸御殿が完成し、元和2年(1616)に能役者は江戸詰めとなり、公的な能の開催は江戸に移りました。
江戸城での年中行事としては、新年最初に能の謡曲を謡う儀式「謡初(うたいぞめ、うたいはじめ)」や、公家との謁見の場で演じられる「公家衆餐応(きょうおう)能」のほか、様々な行事にて能が催されるようになっていきました。
三代将軍・家光、四代将軍・家綱 幕府や諸大名における能の統治
能が式楽として定着したのは三代将軍・家光、四代将軍・家綱の時代でした。
この時代になると、能は老中や若年寄といった官僚の統制下に置かれるようになります。能役者は俸禄(ほうろく/大名に仕えた者が受けた給与)を与えられ、武士と同等の身分を得ます。一方で、幕府に技芸を磨くことを厳しく求められたり、興行や上演演目を管理されたりなど、政治的な統治が行われました。
地方の諸大名も幕府の動きに倣って、能役者を自らの藩でも召し抱えるようになり、能楽の保護に当たります。こうして能は幕府や大名の支配下に入り、幕府の儀式で饗される式楽として次第に定着していきました。
幕府に管理されることで自由さは失ったものの、能役者の地位と生活基盤が整えられたこの時代は、まさに能楽の隆盛期の始まりだったといえるでしょう。
式楽となった江戸時代、謡文化と町入能を楽しみにしていた江戸庶民
四代将軍・家綱以降も江戸幕府が終焉を迎えるまで、能は式楽として幕府とともに歩み続けました。
能が幕府の式楽となったことで、江戸庶民は限られた機会にしか能に接することはできなくなった一面もありました。
ただし、能の歌詞である謡曲を能から離れて謡う、いわゆる「謡(うたい)」が流行し、謡本の普及により同好の人々が集まり謡を楽しむ「謡講(うたいこう)」が町人階層にも親しまれていました。
また、江戸城の本丸御殿には表能舞台が常設され、将軍宣下、跡継ぎの誕生など重要な慶事の儀式には町人も能見物ができる町入能(まちいりのう)が行われました。ふだんは城内に入れない町人には貴重な機会であり、無礼講ともいえる雰囲気の中で町人たちが大喜びする様子が当時の浮世絵に残されています。
今は誰もが自由に能を楽しむことのできる時代です。気負わずに気軽な気持ちで、幽玄の世界に触れてみてはいかがでしょうか。
参考文献/『能・狂言の基礎知識』(著者:石井倫子、発行:角川学芸出版)・『岩波講座 能・狂言Ⅰ 能楽の歴史』(著者:表章・天野文雄、発行:岩波書店)