江戸時代、能楽は幕府の儀式で用いられる芸能(式楽)として、祝い事や節目の行事に欠かせない存在でした。各地の城や大名屋敷には能舞台が設けられ、折々の場面で能が催されていたといいます。

江戸期の能はどのような機会に演じられていたのでしょうか?江戸城を中心にその場面を振り返ってみたいと思います。

謡初 徳川家の慣習を継承した新年の恒例行事

江戸城では新年最初の儀式として、将軍・御三家・諸大名の列座を前に各流儀の大夫が謡う謡初(うたいぞめ、うたいはじめ)が恒例行事でした。
室町幕府でも行っていた行事ですが、徳川家においては家康が岡崎城に在城していた頃から催されていた儀式でした。そのためか、江戸幕府では徳川のしきたりを継承しています。

時代によって変遷はありますが、謡初は以下の流れが習わしでした。

観世大夫 「四海波(しかいなみ/「高砂」の一節)」

以下3曲は居囃子(一曲中の主要部分を、舞なしで囃子を入れて謡う上演形式)によるもの

・観世大夫 「老松

・金春・宝生・金剛の輪番の大夫「東北(とうぼく)」

・喜多大夫「高砂

3人の大夫「弓矢立合(ゆみやたちあい)」弓矢の徳を称える曲を相舞(あいまい)で締めくくる

「弓矢立合」が終わると、将軍がご祝儀として自らの肩衣(かたぎぬ)を観世大夫に与え、列座の諸大名もこれに倣って大夫たちに肩衣を投げ与えたと伝えられています。

この肩衣は後日、金子(きんす/金銭)と引き換えに返却されるのが慣習で、ご祝儀の文字通り能役者の懐を潤していました。

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江戸城での謡初。3人の大夫による相舞で行われた弓矢立合。
当時は拝領の白綸子(りんず)を身に着けて舞ったと言われています
  • 「千代田之御表 御謡初」楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)画
    明治30年(1897)刊 大判錦絵3枚続 所蔵館=東京都立中央図書館特別文庫室(加工)

将軍宣下祝賀能 征夷大将軍任命の儀式を祝す重要な催し

朝廷が征夷大将軍を任命する将軍宣下(せんげ)の返礼として催された将軍宣下祝賀能。慶長8年(1603)、家康の征夷大将軍任命のおりに二条城で行われたのが始まりで、以後、十四代将軍の家茂まで引き継がれました。

新将軍の門出を祝す将軍宣下祝賀能では、天下泰平・五穀豊穣を祈願する「」や脇能(神様が主人公の曲)が上演されました。

家康の将軍宣下祝賀能では徳川氏と縁の深かった九代観世大夫・身愛(ただちか)が四座一流の筆頭として初日の「翁」を勤め、以降も観世座トップの体制が続いたことから、初日の「翁」は観世大夫が勤めるのが通例でした。

唯一の例外が八代将軍吉宗の宣下能で、金春大夫が演じています。脇能も含めて金春と宝生の大夫のみで担当したという記録が残されています。

画像2_「将軍宣下為祝賀諸侯大礼行列ノ図」
江戸幕府の儀式の中でも最も重要とされた将軍宣下。
家光までは上洛して行われましたが、四代将軍以降は江戸城で執り行いました。
  • 「千代田之御表 将軍宣下為祝賀諸侯大礼行列ノ図」楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)画
    明治30年(1897)刊 大判錦絵3枚続 所蔵館=東京都立中央図書館特別文庫室(加工)

公家衆饗応能 朝廷からの勅使をもてなすための演能

朝廷を統制下に置く一方で、その権威を利用するため、朝廷への敬意を重要事項としていた江戸幕府は、毎年正月に将軍の名代が上洛して朝廷に年賀の挨拶を行うのが慣習でした。その返礼として、朝廷は江戸に勅使を派遣して天皇の詔(みことのり)を将軍に伝えたのですが、その勅使をもてなすために行われたのが公家衆饗応(きょうおう)能です。

享保6年(1721)から幕末までの江戸城での演能を記した「触流し御能組」によれば、年中行事としての公家衆饗応能は毎年3月頃に行われ、最初に「翁」を舞い、能を五番、狂言を二番上演するのが慣例となっていたのがわかります。

公家饗応のための演能はこの他、婚礼や法事に下向した勅使への返礼や加冠(男子の成人式)、天皇即位の際などにも行われました。

「能樂圖繪」より 月岡耕漁(つきおかこうぎょ)画
「翁」はもっとも神聖と言われる祝言曲。公家衆饗応能など幕府の正式な催しには必須の演目でした
  • 「能樂圖繪」より 月岡耕漁(つきおかこうぎょ)画
    画像協力/国立国会図書館ウェブサイト

町入能 町人も江戸城での観覧が許された慶事の祝賀能

江戸城の本丸御殿には儀式や謁見を行う(おもて)があり、その大広間正面には表能舞台が常設されていました。将軍宣下、跡継ぎの誕生など重要な慶事の儀式にはこの表舞台で能が催されましたが、初日に限り町人の入城が許され、能鑑賞ができる町入能(まちいりのう)が行われました。

町入能では五千人余りの町人が将軍や大名とともに能を楽しみ、傘、酒、菓子、銭一貫文が振る舞われました。城内は将軍の出座に「親玉!」の声が掛かるなど、無礼講ともいえるイベントのムードあふれる雰囲気であったと伝えられています。

江戸時代を通じて50回程行われた町入能ですが、最初の町入能は慶長12年(1607)1月7日に二代将軍秀忠が催した、本丸御殿の完成を祝う「江戸城移徙能(いしのう、わたましのう)」です。この時の演目は祝言色のある「高砂」や「田村」、現在でも人気のある「熊野(ゆや)」などの能九番が、観世大夫と金春大夫によって上演されました。

画像4_「御大礼之節町人御能拝見」
町入能では雨に備えて傘が支給されました。
町人が城内へ向かいながら、傘をもらっている様子が描かれています
  • 「千代田之御表 御大礼之節町人御能拝見」 楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)画
    明治30年(1897)刊 大判錦絵3枚続 所蔵館=東京都立中央図書館特別文庫室(加工)

能舞台ゆかりの地を訪ねてタイムトリップを楽しむ

能楽が政治的にも大きな意味を持っていた江戸時代、各地の城や大名屋敷の能舞台でも盛んに能の催しが行われていました。

現在、江戸当時の姿を残す能舞台は彦根城にある「彦根城博物館能舞台」のみですが、往事の面影を辿ることのできる場所もあります。

たとえば江戸城の能舞台があった本丸御殿は「皇居東御苑」となり一般公開されています。また能楽を重視していた仙台藩の居城・仙台城では、VRを使ったツアー「仙台城VRゴー」があり、夜の能舞台を疑似体験することができます。

かつて能が演じられた能舞台ゆかりの地を歩いて、演能の場面を思いながら束の間のタイムトリップを楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

参考文献:『岩波講座 能・狂言Ⅰ能楽の歴史』(著者:表章・天野文雄、発行:岩波書店)

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