能の装束
能面と同様に、能装束もまた大切に伝えられてきた道具であるが、世阿弥の時代の装束は今に残っていない。室町時代前期の装束については不明な点もあるが、公家や武家の日常の衣服をそのまま用いたり、仕立て直すなど工夫をして舞台衣装として用いたようだ。能装束の豪華さの背景には、能を庇護した時の権力者の好みが反映されている。古くは、演能に対する報酬として貴人から衣を下賜されるというシステムが存在した。当時、大陸からの舶来品であった高価な衣装を、能役者たちが手にしていたのは、そうした機会を得てのことだろう。最古の能装束として伝わるのは、室町時代後期に、世阿弥の甥の音阿弥が将軍足利義政から拝領した「懺法用単法被(竹屋町単法被)」で、現在も観世宗家が着用している。
現存する能装束のうち古い品の大半は16世紀のもので、その装いには豪華絢爛を愛した桃山時代の美意識が表れている。
江戸時代になると、日常の衣服と舞台で着る能装束との距離は次第に離れていくが、国内の染織技術の向上によって作られる新しい装束にも、伝統的な美意識は継承されていた。江戸時代を通じて、能装束が華やかさを失わなかったもう一つの要因として、能を愛好した諸藩大名の存在もあった。彼らは鑑賞するため、自分が演じるため、あるいは外交手段として等さまざまな理由から、自分の藩に能役者を抱え、後援した。そうした大名家縁りの面・装束も多数現存している。数々の戦火、災害をくぐりぬけ、今に伝えられた名品も多い。
能装束のなかで、とくに繊細で美しいのは女性の役柄に用いる装束だ。代表的なものには、金糸・銀糸・色糸をふんだんに使い立体的な模様を織り出す「唐織」(写真1)や、刺繍と金銀の箔を摺ることで模様を出す「縫箔」(写真2)がある。また、舞を舞う役柄が羽織る薄手の「長絹」(写真3)も織り出された金糸や銀糸の模様が美しい能独特の衣装だ。繊細な装飾は、着物だけにとどまらず小物にも及ぶ。仮髪の上から締める「鬘帯」というリボンにも、桜・秋の草花・紅葉等の植物や、三角形を配列した鱗形など、手の込んだ刺繍があしらわれている。その一方で、大胆なデザインの装束もある。鬼神や武将の霊など荒々しい役柄が着る「法被」(写真4)と呼ばれる上着や、「半切」と呼ばれる袴には、幾何学模様や、稲妻・波など大きな柄が大胆にあしらわれている。能装束の意匠はバリエーション豊富だ。
出立(コーディネート)にもまた役柄ごとの類型がある。例えば、普通の女性は唐織着流(小袖のみで袴を付ない)(写真5)、恋に心乱れる女性は唐織脱下(ぬぎさげ)(着流で右の肩を脱ぐ)、舞を舞う女性は大口と呼ばれる袴に長絹をまとう(写真6)。同じく大口と長絹の組み合わせでも、平家の公達の場合は、長絹の肩を脱ぐことで武装のさまを表現する。他にも、旅をする僧は着流に水衣(紫・黒・茶色などの薄手の上着)(写真7)、高貴な男性は指貫(裾を絞った袴)に狩衣(袖に括り紐がある丸襟の上着)という具合にきまりがある。女性の役の場合には、赤が入っていれば若い女性(紅入。いろいり)、なければ年配の女性(紅無。いろなし)と装束の色合いで年齢を区別できる。写実を追求しないので、盲目の乞食・俊徳丸〈弱法師〉や、老いさらばえ乞食となった小野小町〈卒都婆小町〉など、貧しい身分の役柄であっても襤褸(ぼろ)を着ることはない。
着付けの方法には移り変わりがあった。世阿弥伝書や古い絵画資料からは、今よりもゆるやかに着付けていたらしいことがわかる。時代の好みや、演者の工夫によって変化し、今は直線的な美しさが目を引く着付けとなっている。
着物以外で言えば、仮髪も扮装の重要な要素だ。老人の役の「尉髪」、女神・男神・武者などがつける「黒垂」(長い黒髪)、年老いた神や植物の精の「白垂」(長い白髪)、鬼や霊獣のふさふさとした「赤頭」(白・黒もある)等の種類がある。最後にもう一つ、忘れてはいけない小道具が「扇」で、能舞台に上がるほぼすべての演者が持って出る。舞を舞う際に必須のほか、お酌をしたり、楽器に見立てたりと、さまざまに舞台を彩る重要な小道具だ。
シテを演ずる役者は、その日の能にどのような装束と面を用いるかを考える。もちろん一定の制約はある中でのバリエーションだが、選ぶ装束が異なれば、その主人公の印象も変わってくる。また、装束にあしらわれた草花など自然の景物の美しさが、シンプルな能舞台の上で映え、物語の季節や主人公のイメージを増幅させて、観客の想像力をいっそうかきたててくれることも多い。