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能の歴史

能はいつ誕生し、どう発展したか

能・狂言のルーツは、八世紀、中国大陸から渡来した「散楽」(さんがく)にある。「散」には「正式ではない」とか「雑多な」とかいった意味があり、「散楽」の中には、アクロバットやマジック、人形劇など多種多様な芸能が含まれていた。その散楽の芸能が、平安期に入ると、平安京の都市文化・宮廷文化の影響を受けて大いなる変質を遂げる。もともとの散楽の看板芸であったアクロバットやマジックに代わって、観客の笑いを誘う滑稽な寸劇が次第に人々の人気を集め、その寸劇がやがて「猿楽」(さるがく・さるごう)の名で呼ばれて、神社の祭礼や京都・奈良の大寺院での新年を迎える法会(修正会・修二会)において盛んに演じられるようになっていった。そしてこのような環境の変化が、猿楽に新たな展開を促す契機となる。すなわち、寺院の法会で行われていた追儺の行事(節分の鬼追い)の影響を受け、「福は内、鬼は外」を劇化した、全く新しいタイプの仮面芸能を生み出したのである。現在も演じ継がれている、老翁の面を用いた祝福芸「翁」(式三番)がそれで、鎌倉期には成立したと見られている。

こうして誕生した仮面芸能は、さらに鎌倉末期から南北朝期にかけて、当時流行していた早歌(そうが)や曲舞(くせまい)などの芸能をも取り込み、対話と物まね(現在のいわゆる物まね芸ではなく、物語や歴史上の人物の行動を再現した写実的な演技のこと)、歌と舞が融合した新たな演劇へと進化した。それがすなわち「能」と呼ばれる演劇である。南北朝期から室町初期には、大和・山城・丹波・近江など諸国に「能」を演じる猿楽の劇団が成立し、さらに田楽躍りを本芸とする田楽の劇団も「能」をレパートリーに取り込んで人気を集め、互いに切磋琢磨して芸の洗練に努めたことから、能は急速に芸術的完成度を高めていった。なかでも、観世座のスターとして京都の劇界に華々しく登場した観阿弥、数々の名作を生み出して後代に能の規範を示した世阿弥、そして室町将軍の愛顧を得て幕府御用役者の地位を不動のものにした音阿弥まで、観世大夫三代の活躍により観世座が猿楽諸座・田楽諸座の群雄割拠を制し、能界のトップランナーとして君臨する。これ以後、観世座を含めた大和猿楽四座の系統が能界を牽引し、現在に至っている。

能はその成立以来、濃淡こそあれ、時々の権力者に愛されながら、数百年にわたる歴史を歩んできた。室町幕府三代将軍足利義満の観阿弥・世阿弥贔屓は有名だし、戦国期、天下統一の偉業を果たした豊臣秀吉や、江戸幕府の五代将軍徳川綱吉が、能役者の芸を見物するだけでは飽き足らず、自らも舞台に立って頻りに能を舞ったこともよく知られている。しかしながら、能は常に権力者のためにのみあったのではない。このように華やかな表舞台と並び、能は一方で地方の村々の祭礼の場で「神事能」として盛んに演じられてもきた。そこでは、最初の演目である「翁」の中で、通常の文句に加えて「これも当社に立て給う願なれば……いづれの願か成就せざらん」という願掛けの祝詞が唱えられることがあり、また、旱魃が長く続いた時季には、地域共同体を挙げて雨乞いを祈願する能が盛大に行われることも珍しくはなかった。能はこうして民衆の切なる願いとともに長く演じ継がれてきたのであり、今回の新型コロナウィルス終息祈願能と名付けられた催しも、まさにそのような能の歴史と無関係ではないのである。

宮本圭造