能の基礎知識
能とは?
室町時代(14世紀)に成立した能は、六百年を越える歴史の中で独自の様式を磨き上げてきた日本の代表的な古典芸能であり、同時に、現代に生きる世界の演劇の一つでもある。その特徴を一言で言えば、面と美しい装束を用い、専用の能舞台で上演される歌舞劇、とまとめることができるだろう。
能舞台の上では、日本版コメディの狂言も演ぜられる。能と狂言は源を同じくし、同じ能舞台の上でそれぞれ別の側面を発展させてきた。能が歌舞劇として、どちらかと言えば人間の哀しみや怒り、懐旧の情や恋慕の想いなどを描くのに対し、狂言は笑いの面を受持ち、科白劇として洗練を重ねてきた。また狂言の役者は能の中で一役を担ってもいる。狂言については 別記事で述べることにし、以下しばらくは能に限定して解説する。
代表的な役柄
能にはどんな役が登場するのだろうか。現在の上演曲目はおよそ240曲、そのうち普通演じられるのは120曲ぐらいだが、能の筋書きは非常に単純で、登場人物も類型化されている。代表的な役柄には『源氏物語』『伊勢物語』などの古典文学に登場する優美な男女の霊、『平家物語』で語られる「源平の戦」で死んだ武将の霊、地獄に堕ちて苦しんでいる男女の霊、というように、幽霊が多い。また、松や桜など草木の精、各地の神々、天女、天狗、鬼など、人間以外のものも多く登場する。こうしたものたちが人間の世界に現れ、我々と交渉を持つのである。
もちろん、現実に生きている人間が主人公の能もたくさんある。白拍子のような芸能者、曾我兄弟や義経、弁慶などのヒーローが、さまざまなドラマを繰り広げるほか、別れ別れになった親子や夫婦の物語では市井の人々が主役となる。中国ネタの能も多いので中国人も登場するが、外国人であることは出立で示すのみで演技に違いはない。
演者の役割分担
以上のような作品群を演ずる人々の側にも、いくつかの役割分担がある。
能では主役のことをシテという。能は徹底した「シテ中心主義」で、美しい衣装も面も観客の目を引きつける舞も、ほとんどがシテのものである。また、上で述べた代表的な役柄もシテが演ずるのがふつうである。そのシテと応対し、シテの演技を引出す役をワキと呼ぶ。すべて現実に生きている成人男子で、面をつけることはない。僧や神官、天皇の臣下などの役が多い。
シテを演ずる人たちのグループ(シテ方)と、ワキを演ずる人たちのグループ(ワキ方)はまったく別のグループで、シテ方の役者がワキを演じたりワキ方の役者がシテを演じたりすることはない。シテ方の役者は、シテやその助演的役割のツレを演じるほか、地謡(コーラス)を受け持つ。地謡は、情景や出来事、登場人物たちの心理などをナレーション的に描写するほか、ときにはシテやワキになりかわって、彼らのセリフを謡うこともある。
曲によっては子供が登場することもあり、子方と呼ばれる。子供の役を演ずるだけでなく、天皇や源義経の役など貴人の役も演ずるのが、能の子方の特徴である。たとえば〈船弁慶〉の義経は、シテやワキが表現する愛情・忠誠心・恨み等々の向かう先のいわばマークとしてのみ存在している。そうした義経の存在感が強くなりすぎぬよう、あえて子方を用いるのである。
楽器は、笛・小鼓・大鼓と、曲によって太鼓が用いられる。能の囃子は単なる伴奏音楽ではない。シテの演技や地謡等とともに、一曲の世界を作り上げるための大切な要素である。初めて能を観る人は、特に打楽器の掛声に驚くかもしれないが、この掛声自体、能の音楽の一部をなし、内容や場面にあった情趣を生み出している。唯一のメロディー楽器である笛も、ただ美しく旋律を奏でるというよりは、各場面にふさわしい情趣を醸し出すような演奏をする。
掛声とともに重要視されるのが、「間」と呼ばれる、楽器の音のしていない部分である。音は聞こえなくても、演奏者はただ休んでいるのではなく、そのあいだも舞台上には力が充実している。
狂言の役者も、能の中に登場する。物語の舞台となる土地の住人や、シテ・ワキなどの家来などに扮し、前後の場面をつないだり、筋書を進めたりする役で、アイと呼ばれる。
演出・演技の特徴
能舞台は普通の演劇の舞台に比べ奥行きが深く、舞台が客席に向かってせり出すように開放されており、本舞台と幕を結ぶ「橋掛」が付いているのが特徴である。橋掛は人物の登・退場の通路というだけでなく現実の世界とあの世をつなぐ橋にもなり、また、舞台に立体感を与える役割も果たしている。能の演技や演出は、こうした特殊な空間で演じることを前提に磨かれてきた。
能の演技は、謡と所作で成り立っている。謡は、腹式呼吸を基本にする点は西洋音楽と同じだが、息と共に声を出す発声法は、能独特のものである。女の役も、歌舞伎の女形のような声は出さない。
所作は、腰に力を入れあごを引いた特殊な姿勢(カマエ)を基本にし、移動は床に足の裏を付け、踵を挙げない歩き方(ハコビ)で行う。「能を舞う」という言い方があるが、ただ立っているだけでも、それは日常的な身体の使い方とは異なっている。能一曲の中に、日常的な動作は一つもないと言ってよい。
現代のようなカマエとハコビを基礎とする能の所作は、六百五十年の歴史の中で、能面や装束や能舞台の発達とともに、少しずつできあがってきたものだ。重い装束を着け、能面の位置を安定させるためには、身体の重心を安定させなければならない。能面がほんの僅かな角度の変化でハッとするような表情を見せるなどということも、演者の首がぐらぐらしていたり重心が揺れたりしていては起こりようがない。
このカマエとハコビの上に、様々な型が加えられる。なかには抽象的な、意味のない型もあるが、能の型の基本は、写実的な物まねから無駄な動きを削ったものである。例えば、指を揃えた手を額の辺りに持ってくる「シオリ」という型は、涙を押さえる動作をできる限り簡素化したものである。こうした極度の省略により、逆に、身体の向きを変える・面を上げる・数歩出るといった、ほんのわずかな動作が、何もない吹き抜けの能舞台のうえで、見事な効果を生む仕組みになっている。
「何もない」と書いたが、能舞台の上には、「作リ物」と呼ばれる一種の舞台装置が出されることがある。たとえば竹で舟型の枠組みを作って白い布で巻いただけの「舟」であるとか、神殿や天岩戸を表わす小さな建屋、中に桜の精が入っている老木など、簡素な作りのものが多いが、中には〈道成寺〉のシテが飛び込む鐘のような、大がかりなものもある。
ただしこれらはどれも、役者の演技を効果的に引き出すためのもので、情景を描くためのものではない。能においては、照る月も、空を飛ぶ雁の列も、虫の鳴き声も、すべて謡とシテの動きで表現される。役者がわずかに空を仰いだり、あるいはじっと耳をすましたりする、その動きを見、謡を聞いて、観客もそこに月を見たり虫の声を聞いたりするのである。どんなに地謡がすばらしくても、シテの型が見事でも、観客が想像力を働かせなければ情景は浮き上がってこないことになる。観客参加型の芸能なのだ。
だから、参加してほしい。舞台上のすべてを完璧に理解することなど不可能だし、その必要もない。美しい装束や面、切れのよい所作などを眺め、音楽に身を任せ、その日の自分の感性に触れるところだけを好きなように味わう。ある意味とても贅沢な芸能だとも言えよう。
能の流儀(流派)
能役者は、シテ方、ワキ方、囃子方(笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方)、狂言方と役割が分かれており、それぞれに複数の流儀(流派)がある。現在の流儀は以下の通り。
- シテ方:観世流・金春流・宝生流・金剛流・喜多流
- ワキ方:宝生流・福王流・高安流
- 笛方:一噌流・森田流・藤田流
- 小鼓方:幸流・幸清流・大倉流・観世流
- 大鼓方:葛野流・高安流・大倉流・石井流・観世流
- 太鼓方:金春流・観世流
- 狂言方:大蔵流・和泉流
「今日の能は宝生流だ」「金春流の羽衣を見た」などと言うときは、シテ方の流儀のことを言っている。ただし、観世流の能の時は囃子方も観世流で揃えなければならないとか、金春流の能だから太鼓も金春流でなければいけない、などということはまったくない。ワキ方、囃子方、狂言方、どの流儀も、シテ方のどの流儀の相手もできるし、互いにどのような組み合わせでも上演ができるようになっている。